dimanche 6 juillet 2008

回想するブランショ ― ある20世紀文学史の挿話 ―

福井寧


1 ブランショの沈黙


 モーリス・ブランショは「沈黙」ということばに独特の意味を与えている。「沈黙することは必ずしも沈黙するための最良の手段ではない」とブランショは云う。ブランショにとっての沈黙とは音のない純粋な沈黙ではなく、繰りごとに満ちた注意をそらす騒がしいものである。まるで隣りの部屋から聞こえてくるぼんやりしたもの音のような、何とも理解しえないもの、ただそこにだれかがいるという事実のみを指し示すものが、ブランショにとっての「沈黙」なのである。決して寡黙であるとは云えないブランショの文章は ― 「沈黙は真の沈黙ではない」ということばに代表されるような撞着語法を駆使した評論も小説も ― このブランショ固有の沈黙を目指しているように思われる。沈黙に向かいながらも饒舌な印象すら与えかねない彼の小説や評論は、「距離なき距離」などの巧妙なレトリックによって、あたかも矛盾が矛盾ではないかのように読者に思い込ませるかのような、奇妙に論理的かつ明晰な言語で書かれている。ブランショの文章は「正反合」というヘーゲル的な弁証法の論理(「あれもこれも」)もキルケゴールの「あれかこれか」という内面的弁証法の論理も否定しようとし、あらゆる意味での弁証法的合一の不可能な「あれでもなくこれでもない」という終わりのない「中性」(neutre)のエクリチュールを貫くことを旨としている。ブランショは「私は考える、ゆえに私は存在しない」という奇矯なことばによってデカルト的なコギトの基盤すら否定し、文学の空間のなかには根源的な曖昧さが存在することを語っている。つまり彼はひとつの文章によってひとつのはっきりした価値を提出することを決してしようとしないのである。ブランショの「沈黙」とはこのような曖昧な論理によって通底された「何も言わない」言語である。そのためにいまだにだれも彼の作品に関して納得のゆく読解を成し遂げたものはない。ブランショは『文学の空間』のなかに Noli me legere 「我を読むなかれ」ということばを記しているが、だからといって多くの書物のなかに残されたブランショのことばを読解不能の意味なき繰り言とかたづけて、読まないままでいることもできない。読んだ途端に読むことを拒む、それ自体矛盾をはらんだこの Noli me legere ということばは、不均質な沈黙を読むことを、ざわめきに満ちた沈黙を聞きとることを読者に要求する。死を無効にして復活したイエスがマグダラのマリアに向けた禁止のことば Noli me tangere 「我に触れるなかれ」のパロディであるこのことばは、読むためにやってきた読者をダブルバインドの状況に置く1。読者自身が「読むべきであり読むべきでない」という相反する論理に束縛されて、自己を付疑することになるのである。ブランショにとっての否定性は合一にいたる手段ではなく、むしろ分裂にいたる過程なのである。

 このかたくなな沈黙の姿勢、あらゆる言説を理想的な合一の不可能な騒がしい沈黙の側にひきつけてしまう姿勢は、ブランショが評論のなかですら決して意見を個人的なものとしては提出せずに、あたかも非人称の人物であるかのように文章を書いているという事実によって強調されている。1969年に出版された評論集『終わりのない対話』の後書きのなかで、そこに収録された文章が1953年から1965年という長い期間にわたって発表されたものであることを指摘しながら、ブランショは「この日付の表示、長期にわたる指標によって、どうして私にはこれらのテクストのことを既に死後発表のものとして考えることができるのか、つまりどうしてこれらのテクストはほぼ匿名のものとみなすことができるのかが説明される」と云っている。さらにブランショは自分がこれらのテクストを書いたとは云わずに、これらのテクストは全員に属し、ひとりではなく複数の人物によって「書かれてしまってはいるが常に書かれてゆく」ものであるとつけくわえているのである。つまりテクストが書かれたものとなるために読者の参加が義務づけられているのだが、この読者もキルケゴールの『反復』が想定する「たったひとりの読者」のような特定の読者ではなく、だれでもいい無名の複数の読者なのである。このようにして、特権的な書き手としての「私」、読者との理想的なコミュニケイションをなしうる「私」は不可能なものとされ、「私」は非人称の「だれか」の方に、単数形でありながら不均質な複数性をもつ « il » (「彼」)の方にかぎりなく近づけられている。一人称の語り手が物語を語る小説のなかにおいてさえ、語り手は結末に近づくにしたがって人格を失い、徐々に崩壊してゆく。ここには主体的言説を語る力をもつ「私」を徹底して隠蔽しようという思考の運動がある。

 それではブランショはなぜ執拗に「私」を否定するのだろうか。とりわけアメリカ合衆国では、「主体」という思想を否定する構造主義の先駆者としてブランショはとらえられているようだが、筆者はそのような考え方に対して疑問を感じている。なぜならブランショの小説のなかでは構造的に主体が否定されているのではなく、まさに主体の崩壊そのものが「私」の口から物語られているからである。この物語は主体が崩壊するということを身をもって経験したものでなくては語ることができなかったものではないだろうか。ブランショが否定する「私」は、構造を分析した結果、否定されるべきものとして、実は存在しなかったものとして現れた「私」ではない。そうではなくて、この「私」は、「私なき私」 ― 主体的に行動する力を失った「私」 ― を実際に目のあたりにするという恐ろしい状況をくぐり抜けたブランショ自身の姿を写す「私」だったと考えることができるのではないだろうか。

 以前筆者は、ブランショが「私」を否定した理由として、1930年代に彼はシャルル・モーラスの率いる「アクシヨン・フランセーズ」に近い右翼の論客であったという事実を想定していた。1960年のアルジェリア独立運動の際には「アルジェリア戦争における不服従の権利についての宣言」(通称「一二一人宣言」)にサルトルやブルトンらとともに署名し(1976年の「グラマ」誌のブランショ特集ではこの宣言文をブランショの起草したものとして掲載しているが、ブランショ本人はこの事実を否定している)、1968年の五月革命の際には「作家学生行動委員会」に重要なメンバーとして参画した左翼の作家ブランショは、30年代の自らの政治活動についてはずっと文字どおりの「沈黙」を守ってきた。「アクシヨン・フランセーズ」のティエリー・モーニエらが編集にかかわっていた「コンバ」誌上にブランショが30年代に発表したいくつかのアジテイションまがいの政治論文(「魂なき世界」「テロル、民衆救済の方法」など)が1976年に「グラマ」誌に掲載されたときも、1982年に米国の批評家ジェフリー・メールマンがブランショは30年代には反ユダヤ主義者だったと告発する論文を「テルケル」誌に発表したときも、ブランショは一貫して無言だった。メールマンのポレミックな論文に対して、「ブランショは確かに極右ではあったが反ユダヤ主義者ではなかった」とする「カンゼーヌ・リテレール」紙の掩護射撃はあったが、ブランショ自身は自己弁護することも自己批判することもしなかった。しかしこの「沈黙」はブランショがほぼ決して自分の過去を語らないということから考えるとさほど不思議なことでもなかった。ジョルジュ・バタイユとの有名な関係について語った1962年の「友情」という文章はあったが、この文章も「この友人について、いかにして語ることが認められようか」という修辞疑問ではじまっており、ブランショとバタイユの間にあった具体的な事実に関してはほとんど何も語られていない。むしろこの文章は「何も友情については語りえない」ということを語る文章であり、「関係なき関係」とでもいうべきものについて語ったものだったのである。この「語りえない」という姿勢は1986年発表のフーコーに関する文章においても同様だった(「いくつかの個人的なことば。確かに私はミシェル・フーコーとの間に個人的な関係はなかった」ということばではじまっている)。


2 NRF誌をめぐる物語


 ところが、そんなブランショが近年になって回想的な部分を含むごく短い文章をいくつか発表しはじめている。たとえば1983年の『口に出せない共同体』には1968年についての小さな言及があり、同年の「事後的に」では30年代に書いたレシについてコメントしていたが、それでもこれらの文章の趣旨は決して自らの体験を物語るというものではなかった。しかしこれらの文章は他者のテクストについてばかり書かれていた以前の評論とは明らかに異質なものの出現を予感させた。そしてついに1994年に出版された『私の死の瞬間』、1996年の『友情のために』などは、今まで決して語らなかった自身の過去の体験をことば少なに語るために書かれたテクストのような外見を呈している。『友情のために』は本来は1993年に出版されたディオニス・マスコロの『思考のコミュニスムを求めて』という書物の「プレ・テクスト」(ブランショは pré-texte とつづっている)として発表されたものが独立して刊行されたものなので、執筆時期は『友情のために』の方が『私の死の瞬間』よりもいくぶん早かったと思われる。

 『友情のために』はマスコロとの長年にわたる友情について書かれた文章である。この文章のなかでもブランショはやはり30年代については語っていないが、いくつかの興味深い回想的な叙述が見られる。なかでも自ら右翼団体に属していたことを認めていることと、ガリマール社との関係についての証言は注目すべきものである。ブランショはガリマール社でマスコロと出会ったという。そのころブランショはレーモン・クノーとジャン・ポーランと親しかったということが書かれている。ブランショが1940年代初頭からポーランについて繰り返し言及していたことを考えると、ポーランと交遊があっただろうということは予想できたが、クノーとのかかわりについて言及されたのはおそらくこの文章が初めてである。また、1943年のブランショの第一評論集『あやまち』はマスコロによって編集されたものだったということがここで明かされている2。この第一評論集に収録された文章のほとんどは1941年から1943年にかけて「ジュールナル・デ・デバ」誌に発表された文芸評論だったが、ブランショ自身は既に原稿を破棄していて、マスコロが紙上から文章を蒐集して編集したという驚くべき事実がここで語られている。

 ブランショは「『芸術を推進し人間性を取り戻す』ことに取り組むために結成された」(ジャンルイ・ルーベ・デル・ベール『30年代の非順応主義者たち』)という「青年フランス」なるヴィシー政権に支援されていた右翼団体を1941年に脱退した後、ドリユ・ラ・ロシェルが編集長を務めていた時期のNRF誌の主幹になるように勧められたことを自らここで告白している。これらの事実は周知のものだったが、ブランショが署名した文章のなかで公表されたのはおそらくこれが初めてだ。ここでブランショは文学史の観点から実に興味深いことを告白しているので、引用してみよう。以前は「孤独の作家」と形容されることの多かったブランショだが、この文章は、そのようなブランショ観の転換を迫るものだろう。


 もし私がNRF誌の主幹を引き受けていたとしたら背負わなければならなかったかもしれない責任については、簡潔なしかたでしか語るつもりはない。そのころはドリユがNRF誌の責任者だったが、彼は疲れきっていた。[…]ドリユは提案した。「私はドイツ人に対しては編集長ということでいようと思うが、きみはまったく自由にやってくれていい。政治的な文章を排除してくれさえすれば」 おそらくドリユ自身の気づいていない罠が私にはすぐさまみえた。私は無名の作家なのだから、占領軍に対しては十分な防壁になりえない。奴らをだますためには重要な作家によって編集委員会をつくらなければならないと私は彼に促した。ドリユはいやとは云わなかった。ジャン・ポーランは私に同意したが、さらに進んで、この仕事を引き受けて片づけてしまった。彼はジッド、ヴァレリー、クローデル(クローデルのまったくもって当然のことば「でもこのブランショという知らないひとはだれなんだ」)、シュランベルジェの同意を得た。これらの作家(もちろんポーランを含めて)が私たちを守ってくれるだろうことはわかっていたが(こういった人々を暗黙裡に消すことはできないだろうから)、疑わしい計画、すなわち不可能な計画の保証人になることによって彼らが身を危うくするだろうことも私たちは知っていた。


 しかしこの計画はドリユがモーリヤックを委員として認めなかったことによって頓挫する(「モーリヤックは決してNRF誌に属していなかったし、これからもそれはありえない」というドリユの怒りのことばが引かれている)。そこでドリユはふたたびブランショに主幹を任せようと提案する。「ドリユは最初の提案をふたたびもちだした。中立的な、純粋に文学的な雑誌の編集を私ひとりに任せようとしたのである。」 しかしブランショは自分が文章を発表できない雑誌のために原稿を集めることなどできないとドリユに告げる。つまり1941年の時点では、ブランショはまだ政治的な文章を発表することに情熱をもっていたと考えられる。文章は次のようにつづく。


 こうして悲喜劇は終わった。初期のNRF誌の古株の創設者のひとり(ジッドではない)は自分の提案の形容しがたいニュアンスには気づかずにまだ固執していた。「もしブランショが危険を引き受けてくれたら、あとで償いをするよ。」「でもそれは卑劣だ」と私はジャン・ポーランに云った。「ああ、僕らは卑劣さのただなかにいるのだ。こんなことにはけりをつけなければならない。きっとドリユは自殺してけりをつけることになるだろう」と彼は云った。


 このようにしてジャン・ポーランはドリユが自殺することを予告し、このNRF誌に関する物語は終わる。ここではこれ以上の個人的な感想は述べられていないが、もしブランショがこの仕事を引き受けていたとしたら、青年右翼だった自分自身が対独協力の汚名を着せられて自殺に追い込まれてしまう可能性もあった、とブランショは考えているのではないだろうか(実際に自殺してしまったドリユも、ここでは特に親ドイツ的な人物として描かれていないということにも注目すべきだろう)。


3 「ある青年」の臨死体験


 『友情のために』のなかには、「アルジェリア戦争における不服従の権利の宣言」に関するエピソードなど、戦後に関してもいくつかの注目すべき事実が語られているが、ここではNRF誌の事件につづく占領下の体験を語っている『私の死の瞬間』に目を移してみよう。

 この文章は、「私」が「ある青年」について語るという形をとっている。実に1962年の『期待忘却』以来30年ぶりのレシであると考えることができるが、これがフィクションであるのかどうかは詳らかにしない。この文章は完全なフィクションではないという説を筆者はとりたい。「ある青年」は「城」と呼ばれるところに住んでいる高い身分の人間だったとされる。しかし、ルイルネ・デフォレの証言によれば、ブランショは戦時中に「城」と呼ばれる建物に住んでいたということなので、この「ある青年」はブランショ自身のことだと考えていいだろう。

 せいぜい八百語程度のきわめて短いこの文章のなかで、「ある青年」がドイツ軍に殺されかけたが、何とか逃げのびたという1944年の出来事をブランショは書いている。「私はある青年のことを覚えている。まだ若い男で、死そのものによって死ぬことができなかった。それはまたおそらく不公平なものの過失のためでもあった3」ということばでこの本ははじまっている。青年はナチスの中尉によって城から連れ出され、危うく銃殺されそうになるが、そのときちょうど付近でレジスタンスの戦闘が勃発して、ナチスの中尉は様子を見るためにいなくなる。青年がドイツ兵だと思っていたのは、実はロシア人で、彼らは青年に笑いかけながら、中尉がいない間に逃げるように言う。青年は我を失って森のなかに逃げ込む。後になって青年は、自分がロシア人から見ても高い身分にみえたという理由だけで生き延びることができたということに気づき、「不公平の責苦」を感じるようになる。町は焼きつくされたが、彼の住んでいた城だけはなぜか被害を免れたのだ。青年はその後マルローやポーランと出会う。これらの固有名詞も「青年」とブランショを同一視することを可能にする記号である。最後に「ある青年」について語っていたことばは突然「私」の方に戻ってくる。「死そのものである軽さの感覚だけが残っている。より正確に云うならば、それはそれ以来常に待機中の私の死の瞬間なのだ。」 このようにして、「ある青年」の臨死体験が、「私」の死を「待機中」(en instance)のものにするのである。文章自体が分裂した人格によって書かれていたというトリックが、この最後の一文によって明らかにされていると考えることができるだろう。

 もしこの文章がブランショ自身の占領下の体験を物語ったものだとすれば、ブランショは1944年の時点で自分は死ぬはずだったという感覚をそれ以後もずっともちつづけていたと考えることができるだろう(筆者はフランス滞在時にラジオのブランショ特集番組でデフォレがブランショに関してほぼこの文章と一致する事実を語っていたことを記憶にとどめているが、それはいまだにテクストの形では公表されていない)。おそらく1941年の時点ではまだ政治的な文章の発表の場を求めていてもそれを果たせなかったブランショが、政治的に沈黙するばかりでなく、自分自身に対しても沈黙することを選んだのは、この1944年以後のことだったのではないかと筆者は推測する。『私の死の瞬間』のなかには次のようなことばがある。「まるでこれからは青年の外なる死と内なる死がぶつかり合うことしかしないかのようだった。『私は生きている。いや、お前は死んでいる』」 青年は死を内に抱えて生きている。まるで自分が本来死ぬべきだった死をみすみす通り過ぎてしまったかのように。ひょっとしたらブランショは死を目前にするというこの恐ろしい体験の後に、名前をもたない非人称の死体として文章を書くことを選んだのではないだろうか。だからこそここでも自分の体験を「ある青年」の体験としてしか語ることができなかったのではないだろうか。

 ブランショが過去を隠蔽しようとした理由は、右翼から左翼への転向という単純な政治的物語だろうという筆者の以前の推測は、ブランショの文筆活動のなかできわめて例外的なこれらの文章を読んだ後では当を得たものであるとは思われなくなった。むしろ自分を一度死んだものとみなさざるをえなくなるようなこの極限的な体験こそが、ブランショに個人的な過去を語ることを禁じたものではないのだろうか。そして「死」が彼の肉体の死と一致しようとする年齢にいたって、ようやく個人的な体験を語ることが可能となったのではないか。とはいってもこれらの近作をもって、ブランショは自らに対する沈黙を破ったと云いうるのかどうかはわからない。むしろ死という沈黙に向けて、すなわち1994年にいたって初めて「私の死」と呼ぶことができた「死」に向けて、彼はふたたび繰り言という名の沈黙を繰り出しつづけていると考えるべきなのだろう。おそらくこれからブランショが何を書こうと、それは彼に固有の沈黙を目指すものにしかなりえないのではないだろうか。彼が今までにつくりあげてきた騒がしい「沈黙」に関するレトリックはそれほどまでに強固なものであったと考えられる。だが、ブランショが歴史的事実を証言しはじめたということの意味は、たとえそれがざわめきに満ちた沈黙のなかに沈みこむものであっても、減じられるものではない。

 ブランショが初めて自らに関する歴史的事実を彼なりのしかたで率直に語ったかにみえる『友情のために』のなかにこのような文を読むことができる。「私がいかなる不安のために歴史的であるとされるあらゆる物語(レシ)からずっと遠ざかっていたのかはわからない。まるで私たちが真実であると信じるものも記憶と忘却の戯れによるまことしやかな再構成であるかのように思って、私は物語から遠ざかっていた。」 もしこのことばが1962年の『期待忘却』以来中断されていたレシへの再接近のことばであるとすれば、これから何か驚くべきレシがブランショの手によって刊行されることもありうるのかもしれない、しかもフィクションではない事実を語ったレシを読むことができるのかもしれない、と筆者はひそかに期待している。この意味において、『私の死の瞬間』は、90歳を迎えようとするブランショの新しい一歩となるべき作品ではないだろうか。

(1996年か1997年に執筆)


1 ブランショの最初期の小説(『謎の男トマ』『アミナダブ』はトマ(Thomas)という名前の男を主人公としている。この名前がイエスに実際に触わらなければ復活を信じなかった疑り深い使徒トマスを意味するとすれば、主人公であるトマこそが Noli me legere という禁止を最初に作品の内側から破るものであるのかもしれない。さらにヨハネ福音書のパロディを進めるとすれば、「私を読んだから信じたのか。読まないのに信じるひとは幸いである」と云えるだろう。『文学の空間』のなかで、文学作品はもっぱら「作品が存在する」ということだけしか云わない、とブランショは云う。そしてまたブランショにとって文学の空間は「死の空間」なのだから、そのなかにあることばは死を無効にしていまだ復活しえない死者、自らの死を死ぬことができなかったがゆえに死を内に抱えたもののことばでもあろう。作品を読むことなしに、不毛な死のただなかにある作品の存在を信じよ、とブランショは云っているかのようにも思われるが、むしろ読まずにはすますことのできない疑り深いトマこそがブランショの最初の読者であると考えるべきだろう。

2 『あやまち』はブランショがガリマール社から出版した最初の本ではない。長編小説『謎の男トマ』(1941年)がそれである。ポーランはクロード・ロワに宛てた19419月の書簡のなかで、ロベール・ブラジヤックが『謎の男トマ』について「ブランショはユダヤ人のためにしか書いていない」とまで云ったと書いて慨嘆している。30年代にはブランショと近い場所にいたはずのこのブラジヤックのことばは、ブランショが反ユダヤ主義者だったというメールマンの説に対するひとつの反証になりうるのではないだろうか。メールマンは「コンバ」そのものが反ユダヤ的な雑誌だったとみなしているようだが、典型的な反ユダヤ主義者ブラジヤックは反ユダヤ主義に関する意見の相違から「コンバ」誌への寄稿をやめている。ところでNRF誌についての物語の顚末は、ポーラン書簡集では19419月の手紙の後に、ドリユ宛の手紙のなかで語られている(残念ながらブランショ宛の手紙はこの書簡集には収録されていない)。ブランショが『友情のために』のなかで「1941年の初頭」の出来事として書いているのは単なる記憶ちがいなのだろうか。(ブランショはわざと自伝的とみえる記述のなかで「嘘」を書いていることを、ジャック・デリダは画期的なブランショ論『すみか』(1998年)のなかで明かしている。)

3 「不公平なものの過失」(l'erreur de l'injustice)は、冤罪などの「司法の過失」(l'erreur de la justice)をもじったもので、ブランショの文章のなかに散見される場違いなふざけたことば遊びの一例である。

0 commentaires: