mardi 22 juillet 2008

拒絶される「私」 ― モーリス・ブランショのレシ『望ましいときに』から ―

福井 寧




1 ブランショのフィクション作品


 1907年生まれの作家モーリス・ブランショは、1948年から1951年にいたるまでの4年間に多くのフィクション作品を発表している。彼のフィクション作品は短篇を含めても12篇しか知られていないが、そのうちの7篇がこの時期に発表されているのである1。そして1953年のNRF誌復刊第一号に「存在にかかわる孤独」と題する評論を掲載した頃からブランショは積極的に評論活動を展開し、むしろ小説家としてよりも評論家として知られることになる。もっともブランショは1940年代に既に3冊の評論集を出版していて、50年代以後にも数編のフィクション作品を上梓しているので、単純に小説家から評論家に転身したと云うことはできない。しかし1962年の『期待忘却』を最後にブランショはもはやフィクション作品を執筆せず、評論しか発表していない。彼は徐々にフィクション作品を書くことを放棄したようにみえる。彼が精力的にフィクション作品を発表した1948年から51年にかけての4年間は雑誌発表された評論の量が比較的に少なく、ブランショの文筆活動において特別な一時期を形成している。この短い期間だけは、ブランショは「小説家」であったかのようである。1955年の『文学の空間』で広く評論家として認められるようになり、後には小説を放棄するブランショが、この時期にいかなる小説作品を書いていたのかを検証するのは意義深いことだろう。この時期を代表する一篇として、ここでは『望ましいときに』 Au Moment voulu と題される1951年のレシを扱う。

 ブランショのフィクション作品は「ロマン」(roman)と「レシ」(récit)に大別される。『謎の男トマ』(1941)、『アミナダブ』(1942)、『神様』(1948)の3篇のみがロマンであり、『死の宣告』(1948)、『望ましいときに』、『私とともにいなかったひと』(1953)、『最後のひと』(1957)などの比較的後期の作品がレシである。ロマンは多くの登場人物とエピソードをもつ長篇小説だが、レシはロマンよりも短く、物語を構成するエピソードも登場人物も極端に少ない。『謎の男トマ』と『アミナダブ』は三人称体のロマンであり、『死の宣告』以後のレシは一人称の名前のない「私」が語り手となるレシである。『神様』は語り手「私」が名前をもつ唯一のロマンであり、ロマンからレシへの過渡期の作品だと考えられる。フランソワーズ・コランは『モーリス・ブランショと書くことの問題』のなかではロマンとレシという用語を用いていないが、『謎の男トマ』が1950年に初版の3分の1の長さに書き直されて再版された事実に、前者のカテゴリーから後者のカテゴリーへの移行を見ている2。レシのみを考えても、具体的な日付や歴史的な事実も語られる『死の宣告』から、極端に断片化され、名前をもたない「彼」と「彼女」の抽象的な会話がつづく、最後のフィクション作品『期待忘却』(1962)にいたるまでのブランショのレシの営みは、エピソードを削ぎ落として、物語性の欠落した、断片的なレシの空間をつくろうとする試みだったと云える。

 ところで、『死の宣告』、『最後のひと』、『期待忘却』はブランショのレシに特徴的な二部構成をとり、『私とともにいなかったひと』は空白によって四部にわかたれている。ジャック・デリダは『死の宣告』の前半と後半の名前をもたない「私」の同一性さえ疑わなければならないと云って注意を喚起している3。断片的な小説空間をつくろうとするブランショの営為において、この語り手の同一性の不確かさは重要な要素である。しかし『望ましいときに』は、下位区分に分断されずに語られているという点において、ブランショのレシのなかで例外になっている。ブランショのフィクション作品で作中に行間による空白をもたないものは、長篇小説『アミナダブ』とごく短いものを除いてはこのレシだけである。『望ましいときに』は、少なくとも表面上は、冒頭から結末にいたるまでひとりの語り手によって語られているようにみえる。だがこの語り手は非常に不確かな「私」なのである。彼は「『正確に云って』(« au juste »)何が起こったのか」(pp.89, 108, 141)と繰り返し問う、自らの語る過去の体験について確信をもたない語り手である。その結果、レシの時間構成はきわめて複雑な形をとることになる。『望ましいときに』は形式上は均質なひとつづきにみえるとはいっても、不確かな語り手が曖昧なしかたで語るその言説は断片化への契機を含んでいると云えるだろう。このレシは、語り手の不確かさにおいて、古典的な小説の語りと訣別する作品としてとらえられる。まさに物語の語り手が権利を剝奪される瞬間を、物語る行為の寓話とも云える言説によって描きだしたレシであるととらえることができるのである。いかにしてある物語の語り手が権利を奪われてゆくのかを、この論文で考察しようと思う。



2 登場人物との出会い


 まず『望ましいときに』を読解するにあたって、人物構成と舞台装置を確認しておく必要があるだろう。このレシのなかには、名前のない男の語り手「私」と、ふたりの女性だけが登場するように思われる。そのふたりの女性、ジュディットとクローディアは、ある建物にいっしょに住んでいる。ジュディットは、以前この建物に「私」とともにいたことのある旧知の女性であり、クローディアは「私」の知らない女歌手である。ジュディットに会うために「私」はこの建物に帰ってくる。この建物には「ステュディオ」(studio)と呼ばれるピアノのある部屋と寝室があり、そのふたつは長い廊下によって隔てられている。ピアノのある部屋は浴室と接続しており、寝室の近くには台所がある。ピアノのある部屋の手前に玄関があり、おそらくその外に階段がある。クローディアは歌手なので、ピアノのある部屋はクローディアの寝室であり、寝室がジュディットの部屋であると考えられる。このレシはただひとつこの建物のみを舞台としている。

 このレシではいくつかのエピソードが語られる。そのなかでも重要なエピソードを列挙してみよう。


①冒頭で「私」は戸口でジュディットに迎えられ、ピアノのある部屋にみちびかれる。

②「私」はピアノのある部屋から長い部屋を通って寝室に入り込む。

③クローディアが帰ってきて「私」はピアノのある部屋に連れ戻される。

④「私」とクローディアが台所にいるとき「ある考え」が寝室の扉を開ける。

⑤ジュディットがクローディアのそばから飛び跳ねて離れる。

⑥クローディアにみちびかれて「私」はふたたび寝室に向かう。

⑦ジュディットが「私」とクローディアに対して Nescio vos と云う。

⑧「私」は階段の下にいる女性を見て「望ましいとき」が訪れる。

⑨ジュディットにはアブラハムの物語に似たことが起こったと云われる。


 このレシのなかには、「私」は常に寝室に向かおうとしていて、クローディアにそれを妨げられているという構図がある。「私」はほとんどの時間をピアノのある部屋、浴室、台所で過ごすことになる。紙幅の関係でこれらのエピソードすべてを詳しく考察する余裕はないが、順に記述を追ってゆこうと思う。特にこの論文で中心に論ずるのは⑦と⑧のエピソードである。

 まず冒頭の一文を引用してみよう。


 いっしょに住んでいる女友だちがいなかったので、扉はジュディットによって開けられた。私の驚きは極端で、切り抜けられないもので、確かに、偶然会ったときよりも驚きはずっと大きかった。「何てことだ、また顔見知りだ!(« Mon Dieu! encore une figure de connaissance! ») (p.7)


 「私」はジュディットに会いにこの建物に戻ってきたはずなのに、どうしてこのように驚いたのだろうか。ジュディットがあまりにもむかしのジュディット自身と似すぎていて、まったく変わっていないから驚いたと「私」は云う。だがこの理由づけと「また顔見知りだ」という驚きのことばの間には、ある種の開きがあることに気づかないわけにはいかない。そこでもうひとつの理由を推定しよう4。このレシにおいて語り手が何を求めているのかは記述からは読みとりにくいものの、オルフェウス神話をひとつの契機として読解したいと思う。

 ミシェル・フーコーは『外の思考』のなかで、ブランショのレシには「オルフェウスのまなざしに捧げられているものがある」と云い、『望ましいときに』をそのひとつとして考えている。そこでは語り手はオルフェウスとしてとらえられ、ジュディットは彼を呼ぶエウリュディケー、クローディアはエウリュディケーを閉じ込める番人であると考えられている。「まったく期待に反して、語り手はジュディットを何の苦もなく見いだす。あたかもありえない幸福な帰還によって身をゆだねにやってくる近すぎるエウリュディケーのように」とフーコーは書いている5。この場合、番犬ケルベロスにあたるクローディアによって建物に入ることを断られると語り手は予想していたと云えるだろう。「近すぎるエウリュディケー」を戸口からすぐに連れ戻すことを「私」はせず、ジュディットに招かれてこの建物のなかに入るのである。レシの語り手「私」がジュディットを見いだすべき場所は門番の蔭にある寝室であって、ジュディットは近すぎるものとしてすぐに身をゆだねにやってくるものであるはずがないからこそ「私」は驚いたのであろう。その結果、あえてジュディットが閉じ込められているはずの寝室から彼女を取り戻そうとして、「私」は建物のなかに入るのだと想定してみよう。この語り手は近くにあるものを手にするよりも、語られるべきレシを求めることを優先する語り手であると考えて、この驚きを理解したい。

 ジュディットは「私」をピアノのある部屋に導き入れるが、「私」はその後ですぐに水を求めて台所へと向かう。長い廊下をほとんど意識を失いそうになりながら「私」は歩き、理由はわからないが、台所へは行かずに台所の近くの寝室のなかに入り込む。そこにはひとりの女性がいる。


 寝室の様子はよくみえていて、この寝室は既に私の味方になっていたが、彼女は、私にみえなかった(Je voyais très bien certains aspects de la chambre et celle-ci avait déjà renoué son alliance avec moi, mais, elle, je ne la voyais pas.)。理由はわからない。(p.17)


 まるで「寝室」« la chambre » そのものを指しているかのような曖昧なしかたで、「彼女」« elle » はここで登場する。しかし2ペイジ後に、これが人格をもつものであることがわかる。「それで、彼女は、私に云うことには、私を見ていた」(Eh bien, elle à ce qu'elle me dit elle me voyait) (p.19)。「私」は「彼女」のことを見ないままで寝室を歩き回り、「彼女」とからだのどこかが軽く触れ合う。そのとき「私」はようやく「彼女」の存在に気づき、「何と、そこにいたのですか、それも今!(p.25)と口に出す。その直後に段落を変えて、「クローディアはすぐ後に帰ってきた。私は彼女のことを知らなかった」(Claudia revint peu après. Je ne la connaissais pas.) (p.25) と「私」は云う。この「クローディアはすぐ後に帰ってきた」ということばは単純過去で書かれているために、この女性との触れ合いの場面の直後にクローディアが帰ってきたと読者には思われる。しかし「私」がジュディットをピアノのある部屋に置き去りにしていて、廊下で追い越されていないことを考えると、「私」にまだ知られていないクローディアが寝室にいたと考えることもできる。触れ合うことによって気づくまではこの寝室のなかに立っている女性には名前が与えられず、「私」に認識されないまま8ペイジにわたって代名詞で記述されていたとも考えられる。「私」の曖昧な記述のせいで、読者はこの「彼女」がだれだったのかを確定する手段をもたない。読者にとってばかりでなく、「彼女」を見なかった理由がわからないと云う語り手にとっても、この不確定性は同様のものであったと推測される。ここではこの「彼女」を不確定なままにしておく。結論部分でこの無名の「彼女」について解説しよう。

 この曖昧さを分断する形で、「クローディアはすぐ後に帰ってきた」ということばはひとつの新しいサイクルを開始させる。この場面の直後にクローディアは「私」を寝室から引き離して、ピアノのある部屋に閉じ込めるのである。「彼女は手際よい素早さをもって[…]急いで私をピアノの前の長椅子に寝かせた。彼女は奇妙な考えにみちびかれていたようだ ― しかしそれはたぶんこの領域においてただひとりの主人であろうとする嫉妬に満ちた純粋な情熱であり、純粋な欲望だったのだろう ― また寝室からできるだけ早く私を引き離す必要性にもみちびかれていた。私を見張るのだが、ともかくここの外で私を見張るのだ」(p.29)。番人と出会ってしまった「私」は、もはや寝室にひとりで入ることはできない。たとえ「私」が寝室に行こうとしても、クローディアは「私」を強い力でとらえて、近くから離そうとしない。レシのなかのほとんどの時間を「私」はクローディアの側で過ごすことになるのである。これ以後「私」がジュディットと会うとしても、それは「クローディアの側」(p.54)のことである。「ある考え」が扉を開けたり、ジュディットがクローディアのそばから飛び跳ねて離れるという謎めいたエピソードがときに語られるものの、クローディアの側では、寝室のなかの記述のもつ解釈を拒むような曖昧さはなく、比較的に安定したレシが語られる。

 クローディアが「私」をひきとめる場面をいくつか引用しておこう。「一瞬の後に、私は彼女に合図をして、そっと出てゆくと知らせた。彼女は一種の無意識をもって私を見つめていた。しかし、私が動き出すと、彼女は私をつかまえて、信じられないような強い力で私を近くから離さなかった」(p.49)。「少しして、私はクローディアに呼びかけた。『あなたは眠らなければなりませんよ』『いいえ、寝ないで看病するわ』と彼女は云った。私は大きな悲しみに襲われた。時間が迫っていたので、私はふたたび彼女の方を向いた。『もうやめてください。ここにとどまらないでください。私にはあなたがそこにいることが悲しいのです』 しかし彼女は寝ずの番をつづけた」(pp.100-101)。「そのせいで、私は彼女から離れたのだと思う。しかし彼女はときをおかずして私をつかまえた」(p.110)



3 ジュディットのことば Nescio vos


 次にレシの後半で、「私」がもう一度寝室に入る場面について考察しよう。「私」が寝室に入るのは、冒頭の場面とこの後半の場面の二度だけである。不思議なことに、「私」が書く行為の本来の欲望の対象であるかに思われるジュディットについて、このレシのなかではあまり語られず、レシの多くの部分はクローディアと「私」の会話に費やされている。「私」はジュディットに会いにきたと云うものの、クローディアにとっては「私」がジュディットと呼ぶ女性の存在すら必ずしも明らかではない。この建物に到着した直後に、「クローディアとはだれですか」(p.9)と「私」はジュディットに聞いていたのだが、それに呼応する形で、レシの後半にいたって「ジュディットとはだれですか」(p.128)とクローディアは「私」に聞くのである。「結局あなたは北に惹かれているのです。あなたは北国の人間です」(p.98)とクローディアは「私」に云うが、「北国の人間」とは「遠くにあるものに惹きつけられて近くにあるものを見ないひと」という意味だと考えられるだろう。「私」はそばにいるクローディアを見ずに、「過去よりも遠くにいる」(p.110)とされるジュディットを見ているのだ。この「北国の人間」ということばは、ノヴァーリス『青い花』の主人公ハインリヒに対して与えられる形容であるとともに、南国の暖かさを求めるニーチェの「最後のひと」も暗示していると考えられる。その「私」は北に惹かれつつも、「私といっしょに南に来てください」(p.130)とクローディアに言う。クローディアはそれを拒否して、ついに「私」を寝室に連れてゆくのである。

 しかし寝室のなかで出会ったジュディットは、「私」とクローディアに対して « Nescio vos » 「私にはあなた方がだれなのかわからない」ということばを投げつけるのである。この場面を詳しく見てみよう。 « Nescio vos » ということばは、最初にこの場面が記述されたときには読者には明かされずに、ただ「ふたつのことば」と書かれる。「ジュディットは驚くほどすばやく立ち上がって、ふたつのことばを叫び、ベッドの上に崩れ落ちた」(p.132)とまず記述される。その後で「私」は「クローディアは私の少し後に帰ってきた」(Claudia revint un peu après moi.)ということばを繰り返すのである。そしてこのことばについてこう云う。


 かつて私の目にクローディアの生を開始させ、彼女を後でやってくる人間にしたこのことばもまた戻ってきて、私は彼女を知らなかった、という同じ真実の方へ私を引き連れていったのだとつけくわえることができるかもしれない。こうしてサイクル全体が再開しようとしていたのだ。(p.136)6


 このことばはレシの再開を意図するものである。ジュディットの叫んだ、読者にはまだ内容がわからない「ふたつのことば」を聞いて、かつて寝室のなかでの場面の曖昧さを分断した「クローディアはすぐ後に帰ってきた」という文から、語り手はレシをやり直そうとしている。「ジュディットは私を呼んでいて、私は彼女のことを取り戻すために帰ってきたのだが、そこに私の知らない門番がやってきた。この門番のせいで私はジュディットを取り戻すことができずにこの建物のなかにとどまっているのだ」というレシを、語り手は主体的に語り直そうとしているのだと解釈できる。

 だがこのような「私」の意志は、ジュディット自身の意志とほとんど何のかかわりもないことが明かされる。このジュディットが叫んで崩れ落ちる場面は、奇妙な二重性をもつ瞬間としてとらえられなければならない。「私」はジュディットのこの「ふたつのことば」を聞いて、「クローディアを知らなかった」という「同じ真実」の方に帰ってきたはずである。しかし記述は次のようにつづく。


 そう、彼女はすぐ後に帰ってきて私は彼女のことを知らなかった。しかしもはやこの弱々しいことばに照らしだされてはいなかった。なぜならこのことばはジュディットが記憶の底から叫んだふたつのことばの恐ろしい息吹によって消し去られ、一掃されてしまっていたからだ。Nescio vos 「あなた方がだれかわかりません」ということばを彼女は私たちに向かって投げつけ、その後で彼女は私の腕のなかに崩れ落ちていた。(pp.136-137)7


 この文は大過去で書かれていて、ジュディットがベッドの上に倒れる場面と重ね合わせられている。« Nescio vos » ということばを聞いたあとで、「私」はレシを再開したはずなのだが、その意図はまた « Nescio vos » ということばによって消されていたという、きわめて奇妙な事態が語られているのである。

 自分がクローディアの側に閉じ込められていると信じていたからこそ、「私」は寝室に行かなかったのだが、実際にクローディアにみちびかれて寝室に来てみると、「私」を呼んでいたはずのジュディットは「私」もクローディアも知らないと云うのである。いったい彼女は本当に「私」を呼んでいたのかどうかも定かではない。きわめて不確かな呼びかけによって「私」は寝室に代表されるこのレシの空間に入り、そこでクローディアと出会う。彼はそこで出会うべきはジュディットであると信じつづけるのだが、ついにはその信念も破られるのである。

 そもそもジュディットはベッドの上に倒れたのだろうか、「私」の腕のなかに倒れたのだろうか。このふたつの場面の間に次のような記述がみられる。「私のうえでこの非現実的な死体は腐敗し(ce corps de rêve s'était décomposé)、私はそれを腕のなかに抱き、その力を感じていた。それは夢の力、絶望的な喜びの力であり、打ち負かされながらも常に持続するものであり、貪欲な眼をしたひとだけが私に伝えることができるような力だった」(p.134)。ジュディットのまなざしは貪欲であると描写されている。このことからすると、「私」の腕のなかに倒れた「非現実的な死体」とはジュディットのことであるにちがいないが、「ベッドの上に崩れ落ちた」と「私の腕のなかに崩れ落ちていた」というふたつの文の二重性が、この記述によって否定されうるとは考えられない。不確かな「私」にはこの場面の瞬間を定着することができないのである。

 それでは「私」がこのレシのなかでほとんどの時間を共に過ごしたクローディアはどうなるのだろうか。「ジュディットは私の腕のなかに崩れ落ちていた」と書いたあとで、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」(Claudia revint un peu après moi.) (p.137)とふたたび「私」は繰り返す。しかしここでは、« Nescio vos » ということばの力によって、即座に「私は彼女のことを知らなかった」とは語られない。「私」の側から無知は主張できず、いま階段の下に座っている女性が問題になる。これはだれなのだろうか。クローディアの側の比較的に安定したレシは終わりを告げ、最初に「私」が寝室に入り込んだときにそこに立っていたような無名の「彼女」が、ここでふたたび登場するように思われる。


 クローディアは私の少し後に帰ってきた。まったく静かだったので、彼女はこの後で休んだのだと思う。しかしながら、後になって、私は廊下の開いた扉から私を見つめている彼女を見た(je la vis)(私は、向かい合って、ステュディオのなかにいた)。ふたたび彼女を見たとき、彼女は座っていて、遠くに、少し下の方に、からだを半分曲げて、頭を膝の方に傾けているようにみえた。[…] このとき、ずっと向こうで、彼女もまた、階段の下に、曲がり角の大きな段に、座っているという印象を私は受けた。扉を開けて、私は私のことを見ていない彼女の方を見た。まったく無音のこの動作のなかの静けさに今日、期待でも、あきらめでもない、深く寂しげな尊厳の態度で、少し丸まったこのからだの真実があったのである。(pp.137-138)


 このとき突如イタリック体で強調される « la » によって、文脈が分断されている。ジョルジュ・プレリは『外の力』のなかで、この « la » を何の問題もなくクローディアであるとみなしているが、もしこれがクローディアをそのまま受けるものであるとしたら、突然強調する必要はないだろう8。さらに、これをそのままクローディアを受ける人称代名詞であるととらえると、これにつづく記述を裏切ることになる。


 近づくか?降りてゆくか? 私はそれを望んでいなかったし、彼女自身の方も、その不法な現前において、私のまなざしを受け入れていたが、それを求めてはいなかった。彼女は決して私の方を振り返らず、彼女のことを見てしまった後で、私は静かに引き下がることを決して忘れなかった。この瞬間は決して乱されることも、先送りされることも、遅らされることもなかった。彼女は私のことを知らなかったのかもしれないし、私は彼女のことを知らなかったのかもしれないが、でもそれはどうでもよかった。なぜなら彼女にとっても私にとってもこの瞬間がまさに望ましいときだったからだ。(p.139)9


 文脈からは、イタリック体で強調されて「私」とともに「望ましいとき」にいたる「彼女」« la » がクローディアであるととらえることは可能だが、この「私」には断言すらできない「無知」を文字どおりのものとしてとらえることが必要ではないだろうか。ジュディットの「ふたつのことば」は、クローディアを目的語とした「私は彼女のことを知らなかった」という「私」の断言を消し去り、ここで「無知」は、無名の「彼女」を主語とした、相互的なものとなるのである。レシの語り手が登場人物を知らないというよりはむしろ、語り手にはもはや名前も知りえない登場人物の方が語り手を知らないという状況が、ここで暴かれると考えられるだろう。この決定的な事実が語り手の権利を剝奪するのである。「望ましいとき」はこうして、「私」が主体的にレシの空間に戻ってゆくことも、階段を降りてそこから出てゆくことも断念せざるをえないときなのである。この後クローディアの名前は、あたかも « la » という人称代名詞によってかき消されたかのように二度と語らないが、「私」は受動的な誘引力によってふたたびジュディットについて語りはじめる。「私は私がジュディットと呼んだ女性に出会った(Je rencontrai cette femme que j'ai appelée Judith)。彼女は私に友情や敵対の関係で結びついていたのでもなく、それは幸福や悲嘆でもなかった。彼女は肉体を離れた瞬間ではなく、生きていた」(p.147)

 初めて「私」がクローディアの名前を口にするのは、ジュディットに対して「クローディアとはだれですか」と聞くときだが、それに対してジュディットは何も答えず、すぐに「私」はクローディアのことを忘れてしまったかにみえた。そして寝室に向かった後で「クローディアはすぐ後に帰ってきた。私は彼女のことを知らなかった」と云って、ひとつの「クローディアの側」のサイクルがはじめられたのである。このことばの前の時間では、「私」にとってクローディアは不在である。事実、このレシの最初のことばはクローディアの不在からはじめられている。そして「クローディアはすぐ後に帰ってきた」と「私」が口にする直前に、寝室のなかには無名の「彼女」がいた。レシの後半で、最後に「クローディアは私の少し後に帰ってきた」と云った直後に、突然イタリック体で強調された「彼女」が現れ、この後でクローディアはまた忘れ去られたかのように消えてしまう。レシの冒頭と結末では、私はジュディットについてのみ語る。

 この①の直前と②の直後には、無名の「彼女」が現れ、②の後でクローディアの不在へと向かう記述 B'A' は、クローディアの不在からクローディアの登場へと向かう冒頭の記述 AB を逆向きにたどり直したものと考えられる。この無名の「彼女」をクローディアであるととらえることは確かに可能だが、無名性を保たなければならない。

 この無名の「彼女」についてさらに検証する前に、レシの最後のことばを見ておこう。「円環が既に私を引きずっているのだが、永遠に円環を書かなければならないのだとしても、永遠なるものを消すために円環を書くのだろう。今、終わり」(p.166)と最後の一文で「私」は云う。このことばはレシの再開をまたしても暗示するものである。「私はクローディアのことを知らなかった」と云ったときに、語り手が主体的に再開させようとしたサイクルとはちがう、語り手を引きずってゆく円環が、ここで開かれている。語り手の同一性が疑問に付される二部構成が、ブランショのレシにおいて特徴的なものであると指摘したが、無名の「彼女」に分断されるこの二重の円環構造は、もうひとつのしかたで、語り手の同一性を揺るがすものであると考えることができる。



4 遅れてくる語り手について


 最後に結論として、« Nescio vos » ということばを解釈の契機にして、このレシの構造を考えてみたいと思う。ここで問題になるのが、筆者の想定した無名の「彼女」の存在である。このレシのクライマックスは、ジュディットが倒れる場面から「私」と「彼女」の相互的な無知という「望ましいとき」にいたる場面である。« Nescio vos » ということばと「望ましいとき」にはどのような関係があるのだろうか。« Nescio vos » はマタイ福音書2512節「『十人の乙女』のたとえ」から引かれたことばである。これは時期を逸して遅れてきた愚かな乙女たちに、主人が「もう入ってきてはいけない」と宣告する拒絶のことばである。一方でブランショは、「望ましいとき」について、別のところで触れている。1949年の評論集『捨て石』所収の「ニーチェの方へ」のなかで、「ある意味で、愚かものは決して望ましいときにやってこない(D'une certaine manière, le fou ne viendra jamais au moment voulu)。彼は常に出来事の前に来る」と彼は書いている10。愚かものが来るのは遅すぎて早すぎるのである。『望ましいときに』というレシでは、「望ましいとき」そのものが、« Nescio vos » ということばを投げつけられる遅れてきた語り手に対して、遅すぎるしかたで与えられているのである。そして確かに語り手は、語る権利を奪う「望ましいとき」に来るには早すぎたからこそ、このレシを語ってしまったのである。デリダが『死の宣告』や『本日の与太話』(1973)のなかに見た語り手のダブルバインドの構造は、『望ましいときに』においてより顕著であると云うこともできるだろう11

 ここでふたたびオルフェウス神話の助けを借りて、« Nescio vos » と云われる瞬間の二重性について解釈を試みよう。冒頭でオルフェウスたる「私」は、ケルベロスの不在のうちに帰ってきて、「近すぎるエウリュディケー」を見いだしていた。そしてそのままジュディットを取り戻す時期を逸しながら、最後には、あまりにも遅れてやってきたことを、« Nescio vos » ということばで宣告されるのである。しかし、この « Nescio vos » ということばが、「私」とクローディア、すなわちオルフェウスとケルベロスの両方に投げかけられているという点に注意すべきではないだろうか。ここにこの瞬間の二重性を解く鍵がひそんでいると考えることができるだろう。

 まずこのことばが、クローディアが遅れてやってきた、ということを指し示すものであると考えてみよう。一度目に「ジュディットはベッドの上に崩れ落ちた」と云ったとき「私」は、このことばがクローディアに向けられたものだと考えて、「クローディアの側」のサイクルを再開させたのだとしてみよう。ところでオルフェウスは法を侵犯するものであり、ケルベロスが侵犯行為を禁ずるはずの法の下僕であると考えられる。オルフェウスがケルベロスよりも先に来ることができるということは、ケルベロスがいなくてもオルフェウスには侵犯の権利があるということである。このレシのなかで法と結びついているのはクローディアであるという解釈をとろう。事実クローディアは「時間の法を認めて、もはや必要性を越えて飛び跳ねようとはしないひと」(p.55)のようであると描写されている。さて、« Nescio vos » ということばを聞いて、クローディアは自分よりも遅くやってきたと「私」は考える。「クローディアは私の少し後に帰ってきた」ということばが「私の目にクローディアの生を開始させ、彼女を後にやってくる人間にした」と云って、サイクルを再開させようとするときに、「法は侵犯行為の後に権利をもつ。私は侵犯することによって逆にレシの法を行使する」と語り手はとらえていると思われる。すなわちこのレシの叙述の主体はレシの領域を侵犯する「私」であり、「私」がいなければクローディアのことが語られる権利はないというのである。

 次に « Nescio vos » と云うことばが、語り手に対して与えられた、と考えてみよう。「ジュディットは私の腕のなかに崩れ落ちていた」と云うとき、他ならぬ自分自身が遅れてやってきたことに語り手は気づいたのだと思われる。ただ « Nescio vos » ということばによってばかりではなく、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」と繰り返した後で、はからずも自分が常に過去の反復のうちで遅れてこざるをえない、ということに気づくのである。レシの登場人物は語り手によって生命を与えられるものではなく、逆に、既にレシ固有の法によって支配されている空間のなかに、後から語り手が闖入するのである。ブランショにとって、法とは最初から侵犯行為を拒むものではないが、だからといってそれが侵犯の後になって存在するものだと考えることもできない12。レシの法に支配される空間は、レシを語るという行為によって姿を現すが、それは決して語り手によってつくりだされた空間ではなく、語り手は常に遅れてやってくるということを、« Nescio vos » ということばは語り手に気づかせるのである。「私」はクローディアに拘束されている間だけ法の存在を認識し、クローディアをその名前のもとに考えるのだが、彼女から解放された後にはもはやその名前を語らない。こうして「私」がレシの法をそれと認識できず、もはやレシを語ることができないときが「望ましいとき」なのである。このように考えると、「クローディアの側」の記述の前後に無名の「彼女」が現れるという読解は、妥当なものとなるだろう。だがそれはクローディアは法そのものが形をとって現前したものだということを意味するわけではない。この無名の「彼女」はクローディアと結びついたものであり、クローディアの存在に権利を与える、レシの法の側にいるものである。

 しかしながら、この « Nescio vos » ということばは、確かにジュディットという女性によって云われたものであるということを繰り返して強調しなければならない。彼女がエウリュディケーだとすれば、彼女にとって、自分を死の領域に閉じ込める冥界の法、すなわち自分をレシの空間に閉じ込めるレシの法は、ジュディット自らの意志にはかかわりのないものであると考えなければならないだろう。つまり、語り手が語ることによってレシをつくりだしていたのか、それともここで語り手は語る権利を奪われているのかどうかも、ジュディットにとっては重要なことではなかったとみなすことができる。とはいっても、語り手をレシの側に引き寄せていたジュディットが、ジュディット自らは無自覚であっても、語り手にとっては、レシの法の側にいると思われる無名の「彼女」と結びついたものであったという可能性も当然考慮にたるものだろう。実のところ「彼女」はこの物語のなかでどのように位置づけられるのだろうか。

 最初に「私」が寝室に入り込んだとき、そこに立っていた「彼女」は「生命を」と云い、それを繰り返していた(« La vie, se dit-elle », « La vie, se répétait-elle ») (pp.22, 24)。そして「彼女」と触れ合った後で、「クローディアはすぐ後に帰ってきた」と「私」は云い、クローディアが現れるのである。ジュディットの「ふたつのことば」を聞いた後で、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」ということばが「かつて私の目にクローディアの生(la vie de Claudia)を開始させた」と語り手が云うとき、「生命を」という「彼女」のことばは、初めて意味をもつように思われる。しかし「クローディアの側」の前後に現れるこの無名の「彼女」が、必ずしもクローディアと同一視することができるかどうかは疑問である。クローディアがケルベロスだとしても、あくまでケルベロスは法の下僕であり、法そのものではないと考えられる。クローディアが登場する前に、「彼女」は「私」にはみえなかったという事実は、「彼女」がクローディアよりも、みえない法に近いものだということを意味している。

 一方でこのレシのなかでは、「私」とクローディアが台所で話しているときに、イタリック体で強調された「ある考え」(une pensée)が寝室の扉を開けるという、謎めいたエピソードが語られていた。プレリは、この「考え」が、「ジュディットの残した映像」であると想定している13。しかしたとえクローディアにとってはジュディットの存在がはっきりしたものではないとしても、後に「肉体を離れた瞬間ではなくて、生きていた」とされるジュディットが、この場では「ある考え」に還元されていると考えることに妥当性があるのかどうかもまた疑問である。そもそも「考え」は他のだれかの考えであるはずであり、ジュディットには自らのことを「考え」と化すことはできない。

 それでは、寝室にいる「ある考え」こそが、まがりなりにも語り手によって認識された、この空間を支配する法であり、それが無名の「彼女」として現れていたと考えることはできないだろうか。そしてこの法が、下僕であるクローディアに生命を与えることを、そして帰ってくることを要求したとは考えられないだろうか。『死の宣告』にもまた、ふたりの女性JNが登場するが、そのふたりのどちらでもない、やはりイタリック体で強調された「ある考え」を、まるでひとりの女性であるかのように、語り手「私」は愛していた。『本日の与太話』では、まるでひとりの女性であるかのように、法が人格化して現れるという奇妙な事態が現れている14。『望ましいときに』においては、「ある考え」が扉を開けるという瞬間以外は、この奇妙な観念の女性化という現象は現れていないように思われるが、この無名の「彼女」を「ある考え」と同一視することは、ブランショの小説作品において、可能な仮説であると思われる。« En l'absence de l'amie qui vivait avec elle, la porte fut ouverte par Judith. » という冒頭の文に現れていた « elle » が、既にこの無名の「彼女」を指し示していた、と考えることはできないだろうか。いずれにせよ、『死の宣告』における「ある考え」と同じく、ブランショはこの「彼女」や「ある考え」が何ものであるのか、はっきりと断定できるような書き方をしていない。このような不確定性を、このレシの特徴として考えなければならないだろう。「彼女」が物語のなかでどのように位置づけられるかという問いを筆者はたてたが、このレシのなかでクローディアが云う「ここではだれもひとつの物語に結びつきたいと思っていません」(« Personne ici ne désire se lier à une histoire. ») (p.108) という印象深いことばは、そのような問いすら無効にするものなのかもしれない。

 ところで、『望ましいときに』の後に発表されたレシ、『私とともにいなかったひと』や『期待忘却』においては、執拗に反復される文が印象的である。文の反復というブランショのレシの特徴は、『望ましいときに』に最初に現れるものであり、『死の宣告』にこの特徴は存在しない。『望ましいときに』では、ジュディットが崩れ落ちる場面ばかりでなく、最初に「私」が寝室に入り込む場面、「ある考え」が扉を開ける場面、ジュディットがクローディアから飛び跳ねて離れる場面など、多くの場面が反復して記述される。しかしこれらの反復する記述は、ひとつの事実を確実なものとして反復するのではなく、ジュディットが崩れ落ちる場面のように、反復そのものによって不確かさを増幅するのである。このレシの最後で開かれる円環も、ニーチェ的な永劫回帰を目指すものではなく、ますます過去を断片でしかないものにしてしまうような永遠の反復を、不可避的に目指してしまうものであるように思われる。しかしレシの末尾でレシの反復が暗示されるという事実だけでは、それがブランショのレシに特徴的なものであると云うことはできない。このレシ自体が既に書き直しの痕跡をとどめている、ということが注意を引く事実である。ジュディットがクローディアから飛び跳ねて離れた場面の直後に、このような一文が見られる。「まるで彼女たちふたりの間のこの裂け目が、この残酷な懸隔が… ― しかしこの文の最後まで行くことは、私にはできなかった」(mais aller au bout de cette phrase, je ne pus le faire) (p.86)。この文は単純過去を用いて書かれていて、過去の記述のなかに書く行為の時間が既に混入していることを知らせている。このようにレシの記述は、確実な過去を定着できない書く行為の絶え間ない反復になっているのである。冒頭で「私」はふたたびジュディットと出会って、そのたびに驚く。ここにはレシの空間に閉じ込められた「私」が絶えず反復することによってレシを変質させつつあるかのようなまがまがしさがある。『期待忘却』は、反復と作品内部のことばの照応関係によって、文学のことばが発生する地点の不可能性を問う作品となっているが、『望ましいときに』は、ブランショの主張する文学作品の「存在にかかわる孤独」を円環構造によって巧みに表したものと云えるだろう。

 レシの冒頭で語り手がジュディットをすぐに連れ戻さずに、あえて法の顕現を求めて寝室に入り、クローディアの側で比較的に安定した時間を過ごした後で、時期を逸したことをジュディットによって宣告される、この『望ましいときに』というレシは、レシを語ろうとする語り手の態度を疑問に付すものであると云える。ジュディットは、自覚的には語り手もレシの法も知らず、語られることなど欲していなかったのだろう。最初に寝室に入り込んだとき、次のように云う語り手は決してそのことを知らなかったわけではない。「私のために扉を開けてくれたこの女性について、[…]私は永遠に何もことばをもらしたくないのかもしれない。彼女のことを引き合いに出し、白日の下にさらす必要性のなかには、[…]私を震えあがらせるような暴力がある。ここに私の短縮したいという欲望がある。少なくともその高貴な部分において」(pp.16-17)。つまり語ることに暴力がひそむともとらえる語り手が、何らかの誘引力によって、レシを語っているのである。物語を語るのには遅れて来て、語るのをやめるのには早く来すぎた語り手という語り手の条件は、その誘引力のひとつの結果であると考えられる。さらに、この「暴力」ということばに着目すると、もうひとつの神話系列を援用して、このレシを解釈することができるだろう。ジュディットという名前は、旧約聖書外典のヒロイン、解放の象徴ユディトを思わせる15。もしジュディットがユディトだとすれば、暴力をもって侵入したのは語り手であり、クローディアはジュディットによって、語り手にはもはや語りえぬものとして解放されたのだと考えることもできるだろう。いずれにせよ、このレシの語り手は登場人物によって完全に拒絶され、忘れ去られて終わるのである。

 このレシは、タイトル自体が既に、語り手が語る権利を剝奪される瞬間を問題にしている。「今、終わり」と云って口をつぐむことが、このレシに最初から要求されていたことである。ある想像上の過去にとらわれた語り手が、その瞬間を定着しようとしてレシを書いているのだが、時期を逸しつづける不確かな語り手は、過去を定着する有効な手段をもたない。「望ましいときに死ね」というニーチェのことばを思わせる題名をもち、円環構造によって過去を意志的なものにしようとしながらも、提出されたレシそのものは、ジュディットがどこに倒れたのかも定かではない、断片と化した過去を投げ出している。このレシは、「私」による語りを疑問に付す形で書かれたものだと考えられるが、時期を逸するということが、逆に後になってレシを幾度も再開させる原因になっているという、語り手の体験を語るレシのもつ複雑な時間関係を明かすものであると云える。

 このレシの後でブランショが発表したレシは、いずれも登場人物が固有名をもたない、高度に抽象的なレシであり、『望ましいときに』のなかにときどき顔を出していた、「書く」という行為の時間に寄り添った記述を中心とするレシである。これらの後期のレシのなかには、もはや「罪深きオルフェウス」16としての語り手は存在しないと考えることができる。小説を中心に発表した時期の終わりを告げる『望ましいときに』は、古典的な小説の味わいを残した最後の作品であり、後にはついにフィクションの語りをやめてしまうブランショの文筆活動の重要な転機をなす作品であると云えるだろう。

(1997年発表)


1 その7篇は『死の宣告』(L'Arrêt de mort, Gallimard, 1948)、『神様』(Le Très-Haut, Gallimard, 1948)、「物語?(« Un récit? », Empédocle, 2, 1949)、『謎の男トマ』(新版)(Thomas l'obscur, nouvelle version, Gallimard, 1950)、『望ましいときに』(Au Moment voulu, Gallimard, 1951)、『永遠の繰り言』(Le Ressassement éternel, Minuit, 1951)収録の1930年代に執筆されたとされる短篇小説2篇である。その他の5篇は、初期の長篇小説(ロマン)2篇、『謎の男トマ』の初版(Thomas l'obscur, Gallimard, 1941)、『アミナダブ』(Aminadab, Gallimard, 1942)と、後期の3篇のレシ『私とともにいなかったひと』(Celui qui ne m'accompagnait pas, Gallimard, 1953)、『最後のひと』(Le Dernier Homme, Gallimard, 1957)、『期待忘却』(L'Attente l'oubli, Gallimard, 1962)である。

2   Françoise Collin, Maurice Blanchot et la question de l'écriture, Gallimard, 1971, pp.14-15.

3   Jacques Derrida, Parages, Galilée, 1986, p.186.

4  もちろんこの類似による驚きは重要だが、本論考では扱わない。

5 Michel Foucault, La Pensée du dehors, Fata Morgana, 1986, pp.44-45. 1966年クリティック誌発表論文の再版。フーコーはブランショに「オルフェウスのまなざし」(『文学の空間』L'Espace littéraire, Gallimard, 1955所収)という文章があることをふまえている。

6 原文は次のとおり。 « Je pourrais ajouter que ces mots, qui jadis avaient inauguré, à mes yeux, la vie de Claudia et fait d'elle la personne qui vient après, revenaient, eux aussi, et m'entraînaient vers la même vérité: je ne la connaissais pas. Ainsi, tout le cycle recommençait. » (p.136). 強調は筆者による。「後でやってくるひと」が現在形で書かれていることが、このレシの円環構造を如実に表している。

7 原文は次のとおり。 « Oui, elle revint peu après et je ne la connaissais pas. Mais ce n'était plus sous l'éclairage de ces faibles mots, car ceux-ci avaient été effacés, balayés par le souffle terrible des deux paroles hurlées par Judith du fond de sa mémoire, Nescio vos, « Je ne sais qui vous êtes », qu'elle nous avait jetées à la face, après quoi elle s'était effondrée entre mes bras. » (pp.136-137).

8 Georges Préli, La Force du dehors, Recherches, 1977, p.154.

9 原文は次のとおり。« Me rapprocher? descendre? Je ne le désirais pas, et elle-même, dans sa présence illégitime, acceptait mon regard, mais ne le demandait pas. Jamais elle ne se tourna vers moi et jamais, après l'avoir regardée, je n'oubliai de me retirer tranquillement. Jamais cet instant ne fut troublé, ni prolongé, ni différé, et peut-être m'ignorait-elle, et peut-être était-elle ignorée de moi, mais il n'importait, car pour l'un et pour l'autre cet instant était bien le moment voulu. » (p.139)

10 La Part du feu, Gallimard, 1949, p.283.

11 デリダ前掲書所収の論文 « Survivre » « La loi du genre » を参照のこと。『本日の与太話』(La Folie du jour, Fata Morgana, 1973) は、1949年に雑誌発表された短篇小説「物語?」を改題したもの。

12 「法」の逆説的な性格については、特に『神様』における主人公ソルジュの法に関する饒舌な議論を見られたい。たとえばソルジュは次のように云う。「だから、泥棒!と叫ぶことには意味がありません。少なくともひとが想像するような意味はありません。ただこういうことを意味するのです。真実、平和、権利は我々のものです。このひとが盗むのは、彼が正義の外にいるからではなく、国家がこの実例を必要としているからであり、ときどきかっこを開いて、そこから歴史が、過去が、流れ込む必要があるからなのです」(p.34)。「隠れたり現れたりするのは法の尊厳だった。それぞれのなかに法は隠れ、全員のなかに法は現れた。法が見えないとき、それは法だと知られた。法が見えるとき、もうひとは自分が自分自身なのかわからなくなった」(p.219)。このロマンを読解する際に、ジョン・グレッグはバタイユとブランショの「侵犯行為」に関する思想をほぼ同一視しているが、議論の余地のあるところだろう。(John Gregg, Maurice Blanchot and the Literature of Transgression, Princeton University Press, 1944.)

13 G. Préli, op. cit., p.49. プレリも単純にこの「考え」がジュディットであると断じているわけではないが、それがむしろクローディアよりもジュディットと結びついたものであると考えていることにはまちがいがない。また、彼は『望ましいときに』における、寝室に結びついた無名の「彼女」の存在を想定しているが、特に詳しい分析はしていない。

14 法は「この男ばかりの環境のなかで唯一の女性的要素だった」と云われ、法が「私」に膝を触わらせてくれるという奇妙なエピソードが語られる(La Folie du jour, pp.33-34)。末尾で語られる医者に関するエピソードも興味深い。「しかし、ふたりであることによって、彼らは三人だった。そしてこの三人目が、作家たるものは、はっきりと語り考えるものであって、常に覚えている事柄を物語る能力があると固く信じていた、と私は確信する」(pp.37-38)。この三人目の人物が法なのかもしれないが、定かではない。「ふたりであることによって三人である」というこの記述と、ジュディットとクローディアと無名の「彼女」の間には何らかの関係があるだろう。

15 マーク・C・テイラーが『オルタリティ』のなかで、ミシェル・レリス『ものごころのつく年ごろ』(Michel Leiris, L'Age d'homme, Gallimard, 1939)を参照するように云いながら、この名前に注意を喚起している。(Mark C. Taylor, Altarity, The University of Chicago Press, 1987, p.220.)

16 ブランショは「オルフェウスのまなざし」のなかで、「オルフェウスはやきもきすることにおいて罪深い」(L'Espace littéraire, Folio essais, p.228)と云い、1983年の『事後的に』(Après coup, Minuit, 1983)にいたっても、「ああ、罪深きオルフェウスよ」(p.88)ということばをもらしている。

dimanche 6 juillet 2008

回想するブランショ ― ある20世紀文学史の挿話 ―

福井寧


1 ブランショの沈黙


 モーリス・ブランショは「沈黙」ということばに独特の意味を与えている。「沈黙することは必ずしも沈黙するための最良の手段ではない」とブランショは云う。ブランショにとっての沈黙とは音のない純粋な沈黙ではなく、繰りごとに満ちた注意をそらす騒がしいものである。まるで隣りの部屋から聞こえてくるぼんやりしたもの音のような、何とも理解しえないもの、ただそこにだれかがいるという事実のみを指し示すものが、ブランショにとっての「沈黙」なのである。決して寡黙であるとは云えないブランショの文章は ― 「沈黙は真の沈黙ではない」ということばに代表されるような撞着語法を駆使した評論も小説も ― このブランショ固有の沈黙を目指しているように思われる。沈黙に向かいながらも饒舌な印象すら与えかねない彼の小説や評論は、「距離なき距離」などの巧妙なレトリックによって、あたかも矛盾が矛盾ではないかのように読者に思い込ませるかのような、奇妙に論理的かつ明晰な言語で書かれている。ブランショの文章は「正反合」というヘーゲル的な弁証法の論理(「あれもこれも」)もキルケゴールの「あれかこれか」という内面的弁証法の論理も否定しようとし、あらゆる意味での弁証法的合一の不可能な「あれでもなくこれでもない」という終わりのない「中性」(neutre)のエクリチュールを貫くことを旨としている。ブランショは「私は考える、ゆえに私は存在しない」という奇矯なことばによってデカルト的なコギトの基盤すら否定し、文学の空間のなかには根源的な曖昧さが存在することを語っている。つまり彼はひとつの文章によってひとつのはっきりした価値を提出することを決してしようとしないのである。ブランショの「沈黙」とはこのような曖昧な論理によって通底された「何も言わない」言語である。そのためにいまだにだれも彼の作品に関して納得のゆく読解を成し遂げたものはない。ブランショは『文学の空間』のなかに Noli me legere 「我を読むなかれ」ということばを記しているが、だからといって多くの書物のなかに残されたブランショのことばを読解不能の意味なき繰り言とかたづけて、読まないままでいることもできない。読んだ途端に読むことを拒む、それ自体矛盾をはらんだこの Noli me legere ということばは、不均質な沈黙を読むことを、ざわめきに満ちた沈黙を聞きとることを読者に要求する。死を無効にして復活したイエスがマグダラのマリアに向けた禁止のことば Noli me tangere 「我に触れるなかれ」のパロディであるこのことばは、読むためにやってきた読者をダブルバインドの状況に置く1。読者自身が「読むべきであり読むべきでない」という相反する論理に束縛されて、自己を付疑することになるのである。ブランショにとっての否定性は合一にいたる手段ではなく、むしろ分裂にいたる過程なのである。

 このかたくなな沈黙の姿勢、あらゆる言説を理想的な合一の不可能な騒がしい沈黙の側にひきつけてしまう姿勢は、ブランショが評論のなかですら決して意見を個人的なものとしては提出せずに、あたかも非人称の人物であるかのように文章を書いているという事実によって強調されている。1969年に出版された評論集『終わりのない対話』の後書きのなかで、そこに収録された文章が1953年から1965年という長い期間にわたって発表されたものであることを指摘しながら、ブランショは「この日付の表示、長期にわたる指標によって、どうして私にはこれらのテクストのことを既に死後発表のものとして考えることができるのか、つまりどうしてこれらのテクストはほぼ匿名のものとみなすことができるのかが説明される」と云っている。さらにブランショは自分がこれらのテクストを書いたとは云わずに、これらのテクストは全員に属し、ひとりではなく複数の人物によって「書かれてしまってはいるが常に書かれてゆく」ものであるとつけくわえているのである。つまりテクストが書かれたものとなるために読者の参加が義務づけられているのだが、この読者もキルケゴールの『反復』が想定する「たったひとりの読者」のような特定の読者ではなく、だれでもいい無名の複数の読者なのである。このようにして、特権的な書き手としての「私」、読者との理想的なコミュニケイションをなしうる「私」は不可能なものとされ、「私」は非人称の「だれか」の方に、単数形でありながら不均質な複数性をもつ « il » (「彼」)の方にかぎりなく近づけられている。一人称の語り手が物語を語る小説のなかにおいてさえ、語り手は結末に近づくにしたがって人格を失い、徐々に崩壊してゆく。ここには主体的言説を語る力をもつ「私」を徹底して隠蔽しようという思考の運動がある。

 それではブランショはなぜ執拗に「私」を否定するのだろうか。とりわけアメリカ合衆国では、「主体」という思想を否定する構造主義の先駆者としてブランショはとらえられているようだが、筆者はそのような考え方に対して疑問を感じている。なぜならブランショの小説のなかでは構造的に主体が否定されているのではなく、まさに主体の崩壊そのものが「私」の口から物語られているからである。この物語は主体が崩壊するということを身をもって経験したものでなくては語ることができなかったものではないだろうか。ブランショが否定する「私」は、構造を分析した結果、否定されるべきものとして、実は存在しなかったものとして現れた「私」ではない。そうではなくて、この「私」は、「私なき私」 ― 主体的に行動する力を失った「私」 ― を実際に目のあたりにするという恐ろしい状況をくぐり抜けたブランショ自身の姿を写す「私」だったと考えることができるのではないだろうか。

 以前筆者は、ブランショが「私」を否定した理由として、1930年代に彼はシャルル・モーラスの率いる「アクシヨン・フランセーズ」に近い右翼の論客であったという事実を想定していた。1960年のアルジェリア独立運動の際には「アルジェリア戦争における不服従の権利についての宣言」(通称「一二一人宣言」)にサルトルやブルトンらとともに署名し(1976年の「グラマ」誌のブランショ特集ではこの宣言文をブランショの起草したものとして掲載しているが、ブランショ本人はこの事実を否定している)、1968年の五月革命の際には「作家学生行動委員会」に重要なメンバーとして参画した左翼の作家ブランショは、30年代の自らの政治活動についてはずっと文字どおりの「沈黙」を守ってきた。「アクシヨン・フランセーズ」のティエリー・モーニエらが編集にかかわっていた「コンバ」誌上にブランショが30年代に発表したいくつかのアジテイションまがいの政治論文(「魂なき世界」「テロル、民衆救済の方法」など)が1976年に「グラマ」誌に掲載されたときも、1982年に米国の批評家ジェフリー・メールマンがブランショは30年代には反ユダヤ主義者だったと告発する論文を「テルケル」誌に発表したときも、ブランショは一貫して無言だった。メールマンのポレミックな論文に対して、「ブランショは確かに極右ではあったが反ユダヤ主義者ではなかった」とする「カンゼーヌ・リテレール」紙の掩護射撃はあったが、ブランショ自身は自己弁護することも自己批判することもしなかった。しかしこの「沈黙」はブランショがほぼ決して自分の過去を語らないということから考えるとさほど不思議なことでもなかった。ジョルジュ・バタイユとの有名な関係について語った1962年の「友情」という文章はあったが、この文章も「この友人について、いかにして語ることが認められようか」という修辞疑問ではじまっており、ブランショとバタイユの間にあった具体的な事実に関してはほとんど何も語られていない。むしろこの文章は「何も友情については語りえない」ということを語る文章であり、「関係なき関係」とでもいうべきものについて語ったものだったのである。この「語りえない」という姿勢は1986年発表のフーコーに関する文章においても同様だった(「いくつかの個人的なことば。確かに私はミシェル・フーコーとの間に個人的な関係はなかった」ということばではじまっている)。


2 NRF誌をめぐる物語


 ところが、そんなブランショが近年になって回想的な部分を含むごく短い文章をいくつか発表しはじめている。たとえば1983年の『口に出せない共同体』には1968年についての小さな言及があり、同年の「事後的に」では30年代に書いたレシについてコメントしていたが、それでもこれらの文章の趣旨は決して自らの体験を物語るというものではなかった。しかしこれらの文章は他者のテクストについてばかり書かれていた以前の評論とは明らかに異質なものの出現を予感させた。そしてついに1994年に出版された『私の死の瞬間』、1996年の『友情のために』などは、今まで決して語らなかった自身の過去の体験をことば少なに語るために書かれたテクストのような外見を呈している。『友情のために』は本来は1993年に出版されたディオニス・マスコロの『思考のコミュニスムを求めて』という書物の「プレ・テクスト」(ブランショは pré-texte とつづっている)として発表されたものが独立して刊行されたものなので、執筆時期は『友情のために』の方が『私の死の瞬間』よりもいくぶん早かったと思われる。

 『友情のために』はマスコロとの長年にわたる友情について書かれた文章である。この文章のなかでもブランショはやはり30年代については語っていないが、いくつかの興味深い回想的な叙述が見られる。なかでも自ら右翼団体に属していたことを認めていることと、ガリマール社との関係についての証言は注目すべきものである。ブランショはガリマール社でマスコロと出会ったという。そのころブランショはレーモン・クノーとジャン・ポーランと親しかったということが書かれている。ブランショが1940年代初頭からポーランについて繰り返し言及していたことを考えると、ポーランと交遊があっただろうということは予想できたが、クノーとのかかわりについて言及されたのはおそらくこの文章が初めてである。また、1943年のブランショの第一評論集『あやまち』はマスコロによって編集されたものだったということがここで明かされている2。この第一評論集に収録された文章のほとんどは1941年から1943年にかけて「ジュールナル・デ・デバ」誌に発表された文芸評論だったが、ブランショ自身は既に原稿を破棄していて、マスコロが紙上から文章を蒐集して編集したという驚くべき事実がここで語られている。

 ブランショは「『芸術を推進し人間性を取り戻す』ことに取り組むために結成された」(ジャンルイ・ルーベ・デル・ベール『30年代の非順応主義者たち』)という「青年フランス」なるヴィシー政権に支援されていた右翼団体を1941年に脱退した後、ドリユ・ラ・ロシェルが編集長を務めていた時期のNRF誌の主幹になるように勧められたことを自らここで告白している。これらの事実は周知のものだったが、ブランショが署名した文章のなかで公表されたのはおそらくこれが初めてだ。ここでブランショは文学史の観点から実に興味深いことを告白しているので、引用してみよう。以前は「孤独の作家」と形容されることの多かったブランショだが、この文章は、そのようなブランショ観の転換を迫るものだろう。


 もし私がNRF誌の主幹を引き受けていたとしたら背負わなければならなかったかもしれない責任については、簡潔なしかたでしか語るつもりはない。そのころはドリユがNRF誌の責任者だったが、彼は疲れきっていた。[…]ドリユは提案した。「私はドイツ人に対しては編集長ということでいようと思うが、きみはまったく自由にやってくれていい。政治的な文章を排除してくれさえすれば」 おそらくドリユ自身の気づいていない罠が私にはすぐさまみえた。私は無名の作家なのだから、占領軍に対しては十分な防壁になりえない。奴らをだますためには重要な作家によって編集委員会をつくらなければならないと私は彼に促した。ドリユはいやとは云わなかった。ジャン・ポーランは私に同意したが、さらに進んで、この仕事を引き受けて片づけてしまった。彼はジッド、ヴァレリー、クローデル(クローデルのまったくもって当然のことば「でもこのブランショという知らないひとはだれなんだ」)、シュランベルジェの同意を得た。これらの作家(もちろんポーランを含めて)が私たちを守ってくれるだろうことはわかっていたが(こういった人々を暗黙裡に消すことはできないだろうから)、疑わしい計画、すなわち不可能な計画の保証人になることによって彼らが身を危うくするだろうことも私たちは知っていた。


 しかしこの計画はドリユがモーリヤックを委員として認めなかったことによって頓挫する(「モーリヤックは決してNRF誌に属していなかったし、これからもそれはありえない」というドリユの怒りのことばが引かれている)。そこでドリユはふたたびブランショに主幹を任せようと提案する。「ドリユは最初の提案をふたたびもちだした。中立的な、純粋に文学的な雑誌の編集を私ひとりに任せようとしたのである。」 しかしブランショは自分が文章を発表できない雑誌のために原稿を集めることなどできないとドリユに告げる。つまり1941年の時点では、ブランショはまだ政治的な文章を発表することに情熱をもっていたと考えられる。文章は次のようにつづく。


 こうして悲喜劇は終わった。初期のNRF誌の古株の創設者のひとり(ジッドではない)は自分の提案の形容しがたいニュアンスには気づかずにまだ固執していた。「もしブランショが危険を引き受けてくれたら、あとで償いをするよ。」「でもそれは卑劣だ」と私はジャン・ポーランに云った。「ああ、僕らは卑劣さのただなかにいるのだ。こんなことにはけりをつけなければならない。きっとドリユは自殺してけりをつけることになるだろう」と彼は云った。


 このようにしてジャン・ポーランはドリユが自殺することを予告し、このNRF誌に関する物語は終わる。ここではこれ以上の個人的な感想は述べられていないが、もしブランショがこの仕事を引き受けていたとしたら、青年右翼だった自分自身が対独協力の汚名を着せられて自殺に追い込まれてしまう可能性もあった、とブランショは考えているのではないだろうか(実際に自殺してしまったドリユも、ここでは特に親ドイツ的な人物として描かれていないということにも注目すべきだろう)。


3 「ある青年」の臨死体験


 『友情のために』のなかには、「アルジェリア戦争における不服従の権利の宣言」に関するエピソードなど、戦後に関してもいくつかの注目すべき事実が語られているが、ここではNRF誌の事件につづく占領下の体験を語っている『私の死の瞬間』に目を移してみよう。

 この文章は、「私」が「ある青年」について語るという形をとっている。実に1962年の『期待忘却』以来30年ぶりのレシであると考えることができるが、これがフィクションであるのかどうかは詳らかにしない。この文章は完全なフィクションではないという説を筆者はとりたい。「ある青年」は「城」と呼ばれるところに住んでいる高い身分の人間だったとされる。しかし、ルイルネ・デフォレの証言によれば、ブランショは戦時中に「城」と呼ばれる建物に住んでいたということなので、この「ある青年」はブランショ自身のことだと考えていいだろう。

 せいぜい八百語程度のきわめて短いこの文章のなかで、「ある青年」がドイツ軍に殺されかけたが、何とか逃げのびたという1944年の出来事をブランショは書いている。「私はある青年のことを覚えている。まだ若い男で、死そのものによって死ぬことができなかった。それはまたおそらく不公平なものの過失のためでもあった3」ということばでこの本ははじまっている。青年はナチスの中尉によって城から連れ出され、危うく銃殺されそうになるが、そのときちょうど付近でレジスタンスの戦闘が勃発して、ナチスの中尉は様子を見るためにいなくなる。青年がドイツ兵だと思っていたのは、実はロシア人で、彼らは青年に笑いかけながら、中尉がいない間に逃げるように言う。青年は我を失って森のなかに逃げ込む。後になって青年は、自分がロシア人から見ても高い身分にみえたという理由だけで生き延びることができたということに気づき、「不公平の責苦」を感じるようになる。町は焼きつくされたが、彼の住んでいた城だけはなぜか被害を免れたのだ。青年はその後マルローやポーランと出会う。これらの固有名詞も「青年」とブランショを同一視することを可能にする記号である。最後に「ある青年」について語っていたことばは突然「私」の方に戻ってくる。「死そのものである軽さの感覚だけが残っている。より正確に云うならば、それはそれ以来常に待機中の私の死の瞬間なのだ。」 このようにして、「ある青年」の臨死体験が、「私」の死を「待機中」(en instance)のものにするのである。文章自体が分裂した人格によって書かれていたというトリックが、この最後の一文によって明らかにされていると考えることができるだろう。

 もしこの文章がブランショ自身の占領下の体験を物語ったものだとすれば、ブランショは1944年の時点で自分は死ぬはずだったという感覚をそれ以後もずっともちつづけていたと考えることができるだろう(筆者はフランス滞在時にラジオのブランショ特集番組でデフォレがブランショに関してほぼこの文章と一致する事実を語っていたことを記憶にとどめているが、それはいまだにテクストの形では公表されていない)。おそらく1941年の時点ではまだ政治的な文章の発表の場を求めていてもそれを果たせなかったブランショが、政治的に沈黙するばかりでなく、自分自身に対しても沈黙することを選んだのは、この1944年以後のことだったのではないかと筆者は推測する。『私の死の瞬間』のなかには次のようなことばがある。「まるでこれからは青年の外なる死と内なる死がぶつかり合うことしかしないかのようだった。『私は生きている。いや、お前は死んでいる』」 青年は死を内に抱えて生きている。まるで自分が本来死ぬべきだった死をみすみす通り過ぎてしまったかのように。ひょっとしたらブランショは死を目前にするというこの恐ろしい体験の後に、名前をもたない非人称の死体として文章を書くことを選んだのではないだろうか。だからこそここでも自分の体験を「ある青年」の体験としてしか語ることができなかったのではないだろうか。

 ブランショが過去を隠蔽しようとした理由は、右翼から左翼への転向という単純な政治的物語だろうという筆者の以前の推測は、ブランショの文筆活動のなかできわめて例外的なこれらの文章を読んだ後では当を得たものであるとは思われなくなった。むしろ自分を一度死んだものとみなさざるをえなくなるようなこの極限的な体験こそが、ブランショに個人的な過去を語ることを禁じたものではないのだろうか。そして「死」が彼の肉体の死と一致しようとする年齢にいたって、ようやく個人的な体験を語ることが可能となったのではないか。とはいってもこれらの近作をもって、ブランショは自らに対する沈黙を破ったと云いうるのかどうかはわからない。むしろ死という沈黙に向けて、すなわち1994年にいたって初めて「私の死」と呼ぶことができた「死」に向けて、彼はふたたび繰り言という名の沈黙を繰り出しつづけていると考えるべきなのだろう。おそらくこれからブランショが何を書こうと、それは彼に固有の沈黙を目指すものにしかなりえないのではないだろうか。彼が今までにつくりあげてきた騒がしい「沈黙」に関するレトリックはそれほどまでに強固なものであったと考えられる。だが、ブランショが歴史的事実を証言しはじめたということの意味は、たとえそれがざわめきに満ちた沈黙のなかに沈みこむものであっても、減じられるものではない。

 ブランショが初めて自らに関する歴史的事実を彼なりのしかたで率直に語ったかにみえる『友情のために』のなかにこのような文を読むことができる。「私がいかなる不安のために歴史的であるとされるあらゆる物語(レシ)からずっと遠ざかっていたのかはわからない。まるで私たちが真実であると信じるものも記憶と忘却の戯れによるまことしやかな再構成であるかのように思って、私は物語から遠ざかっていた。」 もしこのことばが1962年の『期待忘却』以来中断されていたレシへの再接近のことばであるとすれば、これから何か驚くべきレシがブランショの手によって刊行されることもありうるのかもしれない、しかもフィクションではない事実を語ったレシを読むことができるのかもしれない、と筆者はひそかに期待している。この意味において、『私の死の瞬間』は、90歳を迎えようとするブランショの新しい一歩となるべき作品ではないだろうか。

(1996年か1997年に執筆)


1 ブランショの最初期の小説(『謎の男トマ』『アミナダブ』はトマ(Thomas)という名前の男を主人公としている。この名前がイエスに実際に触わらなければ復活を信じなかった疑り深い使徒トマスを意味するとすれば、主人公であるトマこそが Noli me legere という禁止を最初に作品の内側から破るものであるのかもしれない。さらにヨハネ福音書のパロディを進めるとすれば、「私を読んだから信じたのか。読まないのに信じるひとは幸いである」と云えるだろう。『文学の空間』のなかで、文学作品はもっぱら「作品が存在する」ということだけしか云わない、とブランショは云う。そしてまたブランショにとって文学の空間は「死の空間」なのだから、そのなかにあることばは死を無効にしていまだ復活しえない死者、自らの死を死ぬことができなかったがゆえに死を内に抱えたもののことばでもあろう。作品を読むことなしに、不毛な死のただなかにある作品の存在を信じよ、とブランショは云っているかのようにも思われるが、むしろ読まずにはすますことのできない疑り深いトマこそがブランショの最初の読者であると考えるべきだろう。

2 『あやまち』はブランショがガリマール社から出版した最初の本ではない。長編小説『謎の男トマ』(1941年)がそれである。ポーランはクロード・ロワに宛てた19419月の書簡のなかで、ロベール・ブラジヤックが『謎の男トマ』について「ブランショはユダヤ人のためにしか書いていない」とまで云ったと書いて慨嘆している。30年代にはブランショと近い場所にいたはずのこのブラジヤックのことばは、ブランショが反ユダヤ主義者だったというメールマンの説に対するひとつの反証になりうるのではないだろうか。メールマンは「コンバ」そのものが反ユダヤ的な雑誌だったとみなしているようだが、典型的な反ユダヤ主義者ブラジヤックは反ユダヤ主義に関する意見の相違から「コンバ」誌への寄稿をやめている。ところでNRF誌についての物語の顚末は、ポーラン書簡集では19419月の手紙の後に、ドリユ宛の手紙のなかで語られている(残念ながらブランショ宛の手紙はこの書簡集には収録されていない)。ブランショが『友情のために』のなかで「1941年の初頭」の出来事として書いているのは単なる記憶ちがいなのだろうか。(ブランショはわざと自伝的とみえる記述のなかで「嘘」を書いていることを、ジャック・デリダは画期的なブランショ論『すみか』(1998年)のなかで明かしている。)

3 「不公平なものの過失」(l'erreur de l'injustice)は、冤罪などの「司法の過失」(l'erreur de la justice)をもじったもので、ブランショの文章のなかに散見される場違いなふざけたことば遊びの一例である。