福井 寧
1 ブランショのフィクション作品
1907年生まれの作家モーリス・ブランショは、1948年から1951年にいたるまでの4年間に多くのフィクション作品を発表している。彼のフィクション作品は短篇を含めても12篇しか知られていないが、そのうちの7篇がこの時期に発表されているのである。そして1953年のNRF誌復刊第一号に「存在にかかわる孤独」と題する評論を掲載した頃からブランショは積極的に評論活動を展開し、むしろ小説家としてよりも評論家として知られることになる。もっともブランショは1940年代に既に3冊の評論集を出版していて、50年代以後にも数編のフィクション作品を上梓しているので、単純に小説家から評論家に転身したと云うことはできない。しかし1962年の『期待忘却』を最後にブランショはもはやフィクション作品を執筆せず、評論しか発表していない。彼は徐々にフィクション作品を書くことを放棄したようにみえる。彼が精力的にフィクション作品を発表した1948年から51年にかけての4年間は雑誌発表された評論の量が比較的に少なく、ブランショの文筆活動において特別な一時期を形成している。この短い期間だけは、ブランショは「小説家」であったかのようである。1955年の『文学の空間』で広く評論家として認められるようになり、後には小説を放棄するブランショが、この時期にいかなる小説作品を書いていたのかを検証するのは意義深いことだろう。この時期を代表する一篇として、ここでは『望ましいときに』 Au Moment voulu と題される1951年のレシを扱う。
ブランショのフィクション作品は「ロマン」(roman)と「レシ」(récit)に大別される。『謎の男トマ』(1941)、『アミナダブ』(1942)、『神様』(1948)の3篇のみがロマンであり、『死の宣告』(1948)、『望ましいときに』、『私とともにいなかったひと』(1953)、『最後のひと』(1957)などの比較的後期の作品がレシである。ロマンは多くの登場人物とエピソードをもつ長篇小説だが、レシはロマンよりも短く、物語を構成するエピソードも登場人物も極端に少ない。『謎の男トマ』と『アミナダブ』は三人称体のロマンであり、『死の宣告』以後のレシは一人称の名前のない「私」が語り手となるレシである。『神様』は語り手「私」が名前をもつ唯一のロマンであり、ロマンからレシへの過渡期の作品だと考えられる。フランソワーズ・コランは『モーリス・ブランショと書くことの問題』のなかではロマンとレシという用語を用いていないが、『謎の男トマ』が1950年に初版の3分の1の長さに書き直されて再版された事実に、前者のカテゴリーから後者のカテゴリーへの移行を見ている。レシのみを考えても、具体的な日付や歴史的な事実も語られる『死の宣告』から、極端に断片化され、名前をもたない「彼」と「彼女」の抽象的な会話がつづく、最後のフィクション作品『期待忘却』(1962)にいたるまでのブランショのレシの営みは、エピソードを削ぎ落として、物語性の欠落した、断片的なレシの空間をつくろうとする試みだったと云える。
ところで、『死の宣告』、『最後のひと』、『期待忘却』はブランショのレシに特徴的な二部構成をとり、『私とともにいなかったひと』は空白によって四部にわかたれている。ジャック・デリダは『死の宣告』の前半と後半の名前をもたない「私」の同一性さえ疑わなければならないと云って注意を喚起している。断片的な小説空間をつくろうとするブランショの営為において、この語り手の同一性の不確かさは重要な要素である。しかし『望ましいときに』は、下位区分に分断されずに語られているという点において、ブランショのレシのなかで例外になっている。ブランショのフィクション作品で作中に行間による空白をもたないものは、長篇小説『アミナダブ』とごく短いものを除いてはこのレシだけである。『望ましいときに』は、少なくとも表面上は、冒頭から結末にいたるまでひとりの語り手によって語られているようにみえる。だがこの語り手は非常に不確かな「私」なのである。彼は「『正確に云って』(« au juste »)何が起こったのか」(pp.89, 108, 141)と繰り返し問う、自らの語る過去の体験について確信をもたない語り手である。その結果、レシの時間構成はきわめて複雑な形をとることになる。『望ましいときに』は形式上は均質なひとつづきにみえるとはいっても、不確かな語り手が曖昧なしかたで語るその言説は断片化への契機を含んでいると云えるだろう。このレシは、語り手の不確かさにおいて、古典的な小説の語りと訣別する作品としてとらえられる。まさに物語の語り手が権利を剝奪される瞬間を、物語る行為の寓話とも云える言説によって描きだしたレシであるととらえることができるのである。いかにしてある物語の語り手が権利を奪われてゆくのかを、この論文で考察しようと思う。
2 登場人物との出会い
まず『望ましいときに』を読解するにあたって、人物構成と舞台装置を確認しておく必要があるだろう。このレシのなかには、名前のない男の語り手「私」と、ふたりの女性だけが登場するように思われる。そのふたりの女性、ジュディットとクローディアは、ある建物にいっしょに住んでいる。ジュディットは、以前この建物に「私」とともにいたことのある旧知の女性であり、クローディアは「私」の知らない女歌手である。ジュディットに会うために「私」はこの建物に帰ってくる。この建物には「ステュディオ」(studio)と呼ばれるピアノのある部屋と寝室があり、そのふたつは長い廊下によって隔てられている。ピアノのある部屋は浴室と接続しており、寝室の近くには台所がある。ピアノのある部屋の手前に玄関があり、おそらくその外に階段がある。クローディアは歌手なので、ピアノのある部屋はクローディアの寝室であり、寝室がジュディットの部屋であると考えられる。このレシはただひとつこの建物のみを舞台としている。
このレシではいくつかのエピソードが語られる。そのなかでも重要なエピソードを列挙してみよう。
①冒頭で「私」は戸口でジュディットに迎えられ、ピアノのある部屋にみちびかれる。
②「私」はピアノのある部屋から長い部屋を通って寝室に入り込む。
③クローディアが帰ってきて「私」はピアノのある部屋に連れ戻される。
④「私」とクローディアが台所にいるとき「ある考え」が寝室の扉を開ける。
⑤ジュディットがクローディアのそばから飛び跳ねて離れる。
⑥クローディアにみちびかれて「私」はふたたび寝室に向かう。
⑦ジュディットが「私」とクローディアに対して Nescio vos と云う。
⑧「私」は階段の下にいる女性を見て「望ましいとき」が訪れる。
⑨ジュディットにはアブラハムの物語に似たことが起こったと云われる。
このレシのなかには、「私」は常に寝室に向かおうとしていて、クローディアにそれを妨げられているという構図がある。「私」はほとんどの時間をピアノのある部屋、浴室、台所で過ごすことになる。紙幅の関係でこれらのエピソードすべてを詳しく考察する余裕はないが、順に記述を追ってゆこうと思う。特にこの論文で中心に論ずるのは⑦と⑧のエピソードである。
まず冒頭の一文を引用してみよう。
いっしょに住んでいる女友だちがいなかったので、扉はジュディットによって開けられた。私の驚きは極端で、切り抜けられないもので、確かに、偶然会ったときよりも驚きはずっと大きかった。「何てことだ、また顔見知りだ!」(« Mon Dieu! encore une figure de connaissance! ») (p.7)
「私」はジュディットに会いにこの建物に戻ってきたはずなのに、どうしてこのように驚いたのだろうか。ジュディットがあまりにもむかしのジュディット自身と似すぎていて、まったく変わっていないから驚いたと「私」は云う。だがこの理由づけと「また顔見知りだ」という驚きのことばの間には、ある種の開きがあることに気づかないわけにはいかない。そこでもうひとつの理由を推定しよう。このレシにおいて語り手が何を求めているのかは記述からは読みとりにくいものの、オルフェウス神話をひとつの契機として読解したいと思う。
ミシェル・フーコーは『外の思考』のなかで、ブランショのレシには「オルフェウスのまなざしに捧げられているものがある」と云い、『望ましいときに』をそのひとつとして考えている。そこでは語り手はオルフェウスとしてとらえられ、ジュディットは彼を呼ぶエウリュディケー、クローディアはエウリュディケーを閉じ込める番人であると考えられている。「まったく期待に反して、語り手はジュディットを何の苦もなく見いだす。あたかもありえない幸福な帰還によって身をゆだねにやってくる近すぎるエウリュディケーのように」とフーコーは書いている。この場合、番犬ケルベロスにあたるクローディアによって建物に入ることを断られると語り手は予想していたと云えるだろう。「近すぎるエウリュディケー」を戸口からすぐに連れ戻すことを「私」はせず、ジュディットに招かれてこの建物のなかに入るのである。レシの語り手「私」がジュディットを見いだすべき場所は門番の蔭にある寝室であって、ジュディットは近すぎるものとしてすぐに身をゆだねにやってくるものであるはずがないからこそ「私」は驚いたのであろう。その結果、あえてジュディットが閉じ込められているはずの寝室から彼女を取り戻そうとして、「私」は建物のなかに入るのだと想定してみよう。この語り手は近くにあるものを手にするよりも、語られるべきレシを求めることを優先する語り手であると考えて、この驚きを理解したい。
ジュディットは「私」をピアノのある部屋に導き入れるが、「私」はその後ですぐに水を求めて台所へと向かう。長い廊下をほとんど意識を失いそうになりながら「私」は歩き、理由はわからないが、台所へは行かずに台所の近くの寝室のなかに入り込む。そこにはひとりの女性がいる。
寝室の様子はよくみえていて、この寝室は既に私の味方になっていたが、彼女は、私にみえなかった(Je voyais très bien certains aspects de la chambre et celle-ci avait déjà renoué son alliance avec moi, mais, elle, je ne la voyais pas.)。理由はわからない。(p.17)
まるで「寝室」« la chambre » そのものを指しているかのような曖昧なしかたで、「彼女」« elle » はここで登場する。しかし2ペイジ後に、これが人格をもつものであることがわかる。「それで、彼女は、私に云うことには、私を見ていた」(Eh bien, elle ─ à ce qu'elle me dit ─ elle me voyait) (p.19)。「私」は「彼女」のことを見ないままで寝室を歩き回り、「彼女」とからだのどこかが軽く触れ合う。そのとき「私」はようやく「彼女」の存在に気づき、「何と、そこにいたのですか、それも今!」(p.25)と口に出す。その直後に段落を変えて、「クローディアはすぐ後に帰ってきた。私は彼女のことを知らなかった」(Claudia revint peu après. Je ne la connaissais pas.) (p.25) と「私」は云う。この「クローディアはすぐ後に帰ってきた」ということばは単純過去で書かれているために、この女性との触れ合いの場面の直後にクローディアが帰ってきたと読者には思われる。しかし「私」がジュディットをピアノのある部屋に置き去りにしていて、廊下で追い越されていないことを考えると、「私」にまだ知られていないクローディアが寝室にいたと考えることもできる。触れ合うことによって気づくまではこの寝室のなかに立っている女性には名前が与えられず、「私」に認識されないまま8ペイジにわたって代名詞で記述されていたとも考えられる。「私」の曖昧な記述のせいで、読者はこの「彼女」がだれだったのかを確定する手段をもたない。読者にとってばかりでなく、「彼女」を見なかった理由がわからないと云う語り手にとっても、この不確定性は同様のものであったと推測される。ここではこの「彼女」を不確定なままにしておく。結論部分でこの無名の「彼女」について解説しよう。
この曖昧さを分断する形で、「クローディアはすぐ後に帰ってきた」ということばはひとつの新しいサイクルを開始させる。この場面の直後にクローディアは「私」を寝室から引き離して、ピアノのある部屋に閉じ込めるのである。「彼女は手際よい素早さをもって[…]急いで私をピアノの前の長椅子に寝かせた。彼女は奇妙な考えにみちびかれていたようだ ― しかしそれはたぶんこの領域においてただひとりの主人であろうとする嫉妬に満ちた純粋な情熱であり、純粋な欲望だったのだろう ― また寝室からできるだけ早く私を引き離す必要性にもみちびかれていた。私を見張るのだが、ともかくここの外で私を見張るのだ」(p.29)。番人と出会ってしまった「私」は、もはや寝室にひとりで入ることはできない。たとえ「私」が寝室に行こうとしても、クローディアは「私」を強い力でとらえて、近くから離そうとしない。レシのなかのほとんどの時間を「私」はクローディアの側で過ごすことになるのである。これ以後「私」がジュディットと会うとしても、それは「クローディアの側」(p.54)のことである。「ある考え」が扉を開けたり、ジュディットがクローディアのそばから飛び跳ねて離れるという謎めいたエピソードがときに語られるものの、クローディアの側では、寝室のなかの記述のもつ解釈を拒むような曖昧さはなく、比較的に安定したレシが語られる。
クローディアが「私」をひきとめる場面をいくつか引用しておこう。「一瞬の後に、私は彼女に合図をして、そっと出てゆくと知らせた。彼女は一種の無意識をもって私を見つめていた。しかし、私が動き出すと、彼女は私をつかまえて、信じられないような強い力で私を近くから離さなかった」(p.49)。「少しして、私はクローディアに呼びかけた。『あなたは眠らなければなりませんよ』『いいえ、寝ないで看病するわ』と彼女は云った。私は大きな悲しみに襲われた。時間が迫っていたので、私はふたたび彼女の方を向いた。『もうやめてください。ここにとどまらないでください。私にはあなたがそこにいることが悲しいのです』 しかし彼女は寝ずの番をつづけた」(pp.100-101)。「そのせいで、私は彼女から離れたのだと思う。しかし彼女はときをおかずして私をつかまえた」(p.110)。
3 ジュディットのことば Nescio vos
次にレシの後半で、「私」がもう一度寝室に入る場面について考察しよう。「私」が寝室に入るのは、冒頭の場面とこの後半の場面の二度だけである。不思議なことに、「私」が書く行為の本来の欲望の対象であるかに思われるジュディットについて、このレシのなかではあまり語られず、レシの多くの部分はクローディアと「私」の会話に費やされている。「私」はジュディットに会いにきたと云うものの、クローディアにとっては「私」がジュディットと呼ぶ女性の存在すら必ずしも明らかではない。この建物に到着した直後に、「クローディアとはだれですか」(p.9)と「私」はジュディットに聞いていたのだが、それに呼応する形で、レシの後半にいたって「ジュディットとはだれですか」(p.128)とクローディアは「私」に聞くのである。「結局あなたは北に惹かれているのです。あなたは北国の人間です」(p.98)とクローディアは「私」に云うが、「北国の人間」とは「遠くにあるものに惹きつけられて近くにあるものを見ないひと」という意味だと考えられるだろう。「私」はそばにいるクローディアを見ずに、「過去よりも遠くにいる」(p.110)とされるジュディットを見ているのだ。この「北国の人間」ということばは、ノヴァーリス『青い花』の主人公ハインリヒに対して与えられる形容であるとともに、南国の暖かさを求めるニーチェの「最後のひと」も暗示していると考えられる。その「私」は北に惹かれつつも、「私といっしょに南に来てください」(p.130)とクローディアに言う。クローディアはそれを拒否して、ついに「私」を寝室に連れてゆくのである。
しかし寝室のなかで出会ったジュディットは、「私」とクローディアに対して « Nescio vos » 「私にはあなた方がだれなのかわからない」ということばを投げつけるのである。この場面を詳しく見てみよう。 « Nescio vos » ということばは、最初にこの場面が記述されたときには読者には明かされずに、ただ「ふたつのことば」と書かれる。「ジュディットは驚くほどすばやく立ち上がって、ふたつのことばを叫び、ベッドの上に崩れ落ちた」(p.132)とまず記述される。その後で「私」は「クローディアは私の少し後に帰ってきた」(Claudia revint un peu après moi.)ということばを繰り返すのである。そしてこのことばについてこう云う。
かつて私の目にクローディアの生を開始させ、彼女を後でやってくる人間にしたこのことばもまた戻ってきて、私は彼女を知らなかった、という同じ真実の方へ私を引き連れていったのだとつけくわえることができるかもしれない。こうしてサイクル全体が再開しようとしていたのだ。(p.136)
このことばはレシの再開を意図するものである。ジュディットの叫んだ、読者にはまだ内容がわからない「ふたつのことば」を聞いて、かつて寝室のなかでの場面の曖昧さを分断した「クローディアはすぐ後に帰ってきた」という文から、語り手はレシをやり直そうとしている。「ジュディットは私を呼んでいて、私は彼女のことを取り戻すために帰ってきたのだが、そこに私の知らない門番がやってきた。この門番のせいで私はジュディットを取り戻すことができずにこの建物のなかにとどまっているのだ」というレシを、語り手は主体的に語り直そうとしているのだと解釈できる。
だがこのような「私」の意志は、ジュディット自身の意志とほとんど何のかかわりもないことが明かされる。このジュディットが叫んで崩れ落ちる場面は、奇妙な二重性をもつ瞬間としてとらえられなければならない。「私」はジュディットのこの「ふたつのことば」を聞いて、「クローディアを知らなかった」という「同じ真実」の方に帰ってきたはずである。しかし記述は次のようにつづく。
そう、彼女はすぐ後に帰ってきて私は彼女のことを知らなかった。しかしもはやこの弱々しいことばに照らしだされてはいなかった。なぜならこのことばはジュディットが記憶の底から叫んだふたつのことばの恐ろしい息吹によって消し去られ、一掃されてしまっていたからだ。Nescio vos 「あなた方がだれかわかりません」ということばを彼女は私たちに向かって投げつけ、その後で彼女は私の腕のなかに崩れ落ちていた。(pp.136-137)
この文は大過去で書かれていて、ジュディットがベッドの上に倒れる場面と重ね合わせられている。« Nescio vos » ということばを聞いたあとで、「私」はレシを再開したはずなのだが、その意図はまた « Nescio vos » ということばによって消されていたという、きわめて奇妙な事態が語られているのである。
自分がクローディアの側に閉じ込められていると信じていたからこそ、「私」は寝室に行かなかったのだが、実際にクローディアにみちびかれて寝室に来てみると、「私」を呼んでいたはずのジュディットは「私」もクローディアも知らないと云うのである。いったい彼女は本当に「私」を呼んでいたのかどうかも定かではない。きわめて不確かな呼びかけによって「私」は寝室に代表されるこのレシの空間に入り、そこでクローディアと出会う。彼はそこで出会うべきはジュディットであると信じつづけるのだが、ついにはその信念も破られるのである。
そもそもジュディットはベッドの上に倒れたのだろうか、「私」の腕のなかに倒れたのだろうか。このふたつの場面の間に次のような記述がみられる。「私のうえでこの非現実的な死体は腐敗し(ce corps de rêve s'était décomposé)、私はそれを腕のなかに抱き、その力を感じていた。それは夢の力、絶望的な喜びの力であり、打ち負かされながらも常に持続するものであり、貪欲な眼をしたひとだけが私に伝えることができるような力だった」(p.134)。ジュディットのまなざしは貪欲であると描写されている。このことからすると、「私」の腕のなかに倒れた「非現実的な死体」とはジュディットのことであるにちがいないが、「ベッドの上に崩れ落ちた」と「私の腕のなかに崩れ落ちていた」というふたつの文の二重性が、この記述によって否定されうるとは考えられない。不確かな「私」にはこの場面の瞬間を定着することができないのである。
それでは「私」がこのレシのなかでほとんどの時間を共に過ごしたクローディアはどうなるのだろうか。「ジュディットは私の腕のなかに崩れ落ちていた」と書いたあとで、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」(Claudia revint un peu après moi.) (p.137)とふたたび「私」は繰り返す。しかしここでは、« Nescio vos » ということばの力によって、即座に「私は彼女のことを知らなかった」とは語られない。「私」の側から無知は主張できず、いま階段の下に座っている女性が問題になる。これはだれなのだろうか。クローディアの側の比較的に安定したレシは終わりを告げ、最初に「私」が寝室に入り込んだときにそこに立っていたような無名の「彼女」が、ここでふたたび登場するように思われる。
クローディアは私の少し後に帰ってきた。まったく静かだったので、彼女はこの後で休んだのだと思う。しかしながら、後になって、私は廊下の開いた扉から私を見つめている彼女を見た(je la vis)(私は、向かい合って、ステュディオのなかにいた)。ふたたび彼女を見たとき、彼女は座っていて、遠くに、少し下の方に、からだを半分曲げて、頭を膝の方に傾けているようにみえた。[…] このとき、ずっと向こうで、彼女もまた、階段の下に、曲がり角の大きな段に、座っているという印象を私は受けた。扉を開けて、私は私のことを見ていない彼女の方を見た。まったく無音のこの動作のなかの静けさに今日、期待でも、あきらめでもない、深く寂しげな尊厳の態度で、少し丸まったこのからだの真実があったのである。(pp.137-138)
このとき突如イタリック体で強調される « la » によって、文脈が分断されている。ジョルジュ・プレリは『外の力』のなかで、この « la » を何の問題もなくクローディアであるとみなしているが、もしこれがクローディアをそのまま受けるものであるとしたら、突然強調する必要はないだろう。さらに、これをそのままクローディアを受ける人称代名詞であるととらえると、これにつづく記述を裏切ることになる。
近づくか?降りてゆくか? 私はそれを望んでいなかったし、彼女自身の方も、その不法な現前において、私のまなざしを受け入れていたが、それを求めてはいなかった。彼女は決して私の方を振り返らず、彼女のことを見てしまった後で、私は静かに引き下がることを決して忘れなかった。この瞬間は決して乱されることも、先送りされることも、遅らされることもなかった。彼女は私のことを知らなかったのかもしれないし、私は彼女のことを知らなかったのかもしれないが、でもそれはどうでもよかった。なぜなら彼女にとっても私にとってもこの瞬間がまさに望ましいときだったからだ。(p.139)
文脈からは、イタリック体で強調されて「私」とともに「望ましいとき」にいたる「彼女」« la » がクローディアであるととらえることは可能だが、この「私」には断言すらできない「無知」を文字どおりのものとしてとらえることが必要ではないだろうか。ジュディットの「ふたつのことば」は、クローディアを目的語とした「私は彼女のことを知らなかった」という「私」の断言を消し去り、ここで「無知」は、無名の「彼女」を主語とした、相互的なものとなるのである。レシの語り手が登場人物を知らないというよりはむしろ、語り手にはもはや名前も知りえない登場人物の方が語り手を知らないという状況が、ここで暴かれると考えられるだろう。この決定的な事実が語り手の権利を剝奪するのである。「望ましいとき」はこうして、「私」が主体的にレシの空間に戻ってゆくことも、階段を降りてそこから出てゆくことも断念せざるをえないときなのである。この後クローディアの名前は、あたかも « la » という人称代名詞によってかき消されたかのように二度と語らないが、「私」は受動的な誘引力によってふたたびジュディットについて語りはじめる。「私は私がジュディットと呼んだ女性に出会った(Je rencontrai cette femme que j'ai appelée Judith)。彼女は私に友情や敵対の関係で結びついていたのでもなく、それは幸福や悲嘆でもなかった。彼女は肉体を離れた瞬間ではなく、生きていた」(p.147)。
初めて「私」がクローディアの名前を口にするのは、ジュディットに対して「クローディアとはだれですか」と聞くときだが、それに対してジュディットは何も答えず、すぐに「私」はクローディアのことを忘れてしまったかにみえた。そして寝室に向かった後で「クローディアはすぐ後に帰ってきた。私は彼女のことを知らなかった」と云って、ひとつの「クローディアの側」のサイクルがはじめられたのである。このことばの前の時間では、「私」にとってクローディアは不在である。事実、このレシの最初のことばはクローディアの不在からはじめられている。そして「クローディアはすぐ後に帰ってきた」と「私」が口にする直前に、寝室のなかには無名の「彼女」がいた。レシの後半で、最後に「クローディアは私の少し後に帰ってきた」と云った直後に、突然イタリック体で強調された「彼女」が現れ、この後でクローディアはまた忘れ去られたかのように消えてしまう。レシの冒頭と結末では、私はジュディットについてのみ語る。

この①の直前と②の直後には、無名の「彼女」が現れ、②の後でクローディアの不在へと向かう記述 B'A' は、クローディアの不在からクローディアの登場へと向かう冒頭の記述 AB を逆向きにたどり直したものと考えられる。この無名の「彼女」をクローディアであるととらえることは確かに可能だが、無名性を保たなければならない。
この無名の「彼女」についてさらに検証する前に、レシの最後のことばを見ておこう。「円環が既に私を引きずっているのだが、永遠に円環を書かなければならないのだとしても、永遠なるものを消すために円環を書くのだろう。今、終わり」(p.166)と最後の一文で「私」は云う。このことばはレシの再開をまたしても暗示するものである。「私はクローディアのことを知らなかった」と云ったときに、語り手が主体的に再開させようとしたサイクルとはちがう、語り手を引きずってゆく円環が、ここで開かれている。語り手の同一性が疑問に付される二部構成が、ブランショのレシにおいて特徴的なものであると指摘したが、無名の「彼女」に分断されるこの二重の円環構造は、もうひとつのしかたで、語り手の同一性を揺るがすものであると考えることができる。
4 遅れてくる語り手について
最後に結論として、« Nescio vos » ということばを解釈の契機にして、このレシの構造を考えてみたいと思う。ここで問題になるのが、筆者の想定した無名の「彼女」の存在である。このレシのクライマックスは、ジュディットが倒れる場面から「私」と「彼女」の相互的な無知という「望ましいとき」にいたる場面である。« Nescio vos » ということばと「望ましいとき」にはどのような関係があるのだろうか。« Nescio vos » はマタイ福音書25章12節「『十人の乙女』のたとえ」から引かれたことばである。これは時期を逸して遅れてきた愚かな乙女たちに、主人が「もう入ってきてはいけない」と宣告する拒絶のことばである。一方でブランショは、「望ましいとき」について、別のところで触れている。1949年の評論集『捨て石』所収の「ニーチェの方へ」のなかで、「ある意味で、愚かものは決して望ましいときにやってこない(D'une certaine manière, le fou ne viendra jamais au moment voulu)。彼は常に出来事の前に来る」と彼は書いている。愚かものが来るのは遅すぎて早すぎるのである。『望ましいときに』というレシでは、「望ましいとき」そのものが、« Nescio vos » ということばを投げつけられる遅れてきた語り手に対して、遅すぎるしかたで与えられているのである。そして確かに語り手は、語る権利を奪う「望ましいとき」に来るには早すぎたからこそ、このレシを語ってしまったのである。デリダが『死の宣告』や『本日の与太話』(1973)のなかに見た語り手のダブルバインドの構造は、『望ましいときに』においてより顕著であると云うこともできるだろう。
ここでふたたびオルフェウス神話の助けを借りて、« Nescio vos » と云われる瞬間の二重性について解釈を試みよう。冒頭でオルフェウスたる「私」は、ケルベロスの不在のうちに帰ってきて、「近すぎるエウリュディケー」を見いだしていた。そしてそのままジュディットを取り戻す時期を逸しながら、最後には、あまりにも遅れてやってきたことを、« Nescio vos » ということばで宣告されるのである。しかし、この « Nescio vos » ということばが、「私」とクローディア、すなわちオルフェウスとケルベロスの両方に投げかけられているという点に注意すべきではないだろうか。ここにこの瞬間の二重性を解く鍵がひそんでいると考えることができるだろう。
まずこのことばが、クローディアが遅れてやってきた、ということを指し示すものであると考えてみよう。一度目に「ジュディットはベッドの上に崩れ落ちた」と云ったとき「私」は、このことばがクローディアに向けられたものだと考えて、「クローディアの側」のサイクルを再開させたのだとしてみよう。ところでオルフェウスは法を侵犯するものであり、ケルベロスが侵犯行為を禁ずるはずの法の下僕であると考えられる。オルフェウスがケルベロスよりも先に来ることができるということは、ケルベロスがいなくてもオルフェウスには侵犯の権利があるということである。このレシのなかで法と結びついているのはクローディアであるという解釈をとろう。事実クローディアは「時間の法を認めて、もはや必要性を越えて飛び跳ねようとはしないひと」(p.55)のようであると描写されている。さて、« Nescio vos » ということばを聞いて、クローディアは自分よりも遅くやってきたと「私」は考える。「クローディアは私の少し後に帰ってきた」ということばが「私の目にクローディアの生を開始させ、彼女を後にやってくる人間にした」と云って、サイクルを再開させようとするときに、「法は侵犯行為の後に権利をもつ。私は侵犯することによって逆にレシの法を行使する」と語り手はとらえていると思われる。すなわちこのレシの叙述の主体はレシの領域を侵犯する「私」であり、「私」がいなければクローディアのことが語られる権利はないというのである。
次に « Nescio vos » と云うことばが、語り手に対して与えられた、と考えてみよう。「ジュディットは私の腕のなかに崩れ落ちていた」と云うとき、他ならぬ自分自身が遅れてやってきたことに語り手は気づいたのだと思われる。ただ « Nescio vos » ということばによってばかりではなく、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」と繰り返した後で、はからずも自分が常に過去の反復のうちで遅れてこざるをえない、ということに気づくのである。レシの登場人物は語り手によって生命を与えられるものではなく、逆に、既にレシ固有の法によって支配されている空間のなかに、後から語り手が闖入するのである。ブランショにとって、法とは最初から侵犯行為を拒むものではないが、だからといってそれが侵犯の後になって存在するものだと考えることもできない。レシの法に支配される空間は、レシを語るという行為によって姿を現すが、それは決して語り手によってつくりだされた空間ではなく、語り手は常に遅れてやってくるということを、« Nescio vos » ということばは語り手に気づかせるのである。「私」はクローディアに拘束されている間だけ法の存在を認識し、クローディアをその名前のもとに考えるのだが、彼女から解放された後にはもはやその名前を語らない。こうして「私」がレシの法をそれと認識できず、もはやレシを語ることができないときが「望ましいとき」なのである。このように考えると、「クローディアの側」の記述の前後に無名の「彼女」が現れるという読解は、妥当なものとなるだろう。だがそれはクローディアは法そのものが形をとって現前したものだということを意味するわけではない。この無名の「彼女」はクローディアと結びついたものであり、クローディアの存在に権利を与える、レシの法の側にいるものである。
しかしながら、この « Nescio vos » ということばは、確かにジュディットという女性によって云われたものであるということを繰り返して強調しなければならない。彼女がエウリュディケーだとすれば、彼女にとって、自分を死の領域に閉じ込める冥界の法、すなわち自分をレシの空間に閉じ込めるレシの法は、ジュディット自らの意志にはかかわりのないものであると考えなければならないだろう。つまり、語り手が語ることによってレシをつくりだしていたのか、それともここで語り手は語る権利を奪われているのかどうかも、ジュディットにとっては重要なことではなかったとみなすことができる。とはいっても、語り手をレシの側に引き寄せていたジュディットが、ジュディット自らは無自覚であっても、語り手にとっては、レシの法の側にいると思われる無名の「彼女」と結びついたものであったという可能性も当然考慮にたるものだろう。実のところ「彼女」はこの物語のなかでどのように位置づけられるのだろうか。
最初に「私」が寝室に入り込んだとき、そこに立っていた「彼女」は「生命を」と云い、それを繰り返していた(« La vie, se dit-elle », « La vie, se répétait-elle ») (pp.22, 24)。そして「彼女」と触れ合った後で、「クローディアはすぐ後に帰ってきた」と「私」は云い、クローディアが現れるのである。ジュディットの「ふたつのことば」を聞いた後で、「クローディアは私の少し後に帰ってきた」ということばが「かつて私の目にクローディアの生(la vie de Claudia)を開始させた」と語り手が云うとき、「生命を」という「彼女」のことばは、初めて意味をもつように思われる。しかし「クローディアの側」の前後に現れるこの無名の「彼女」が、必ずしもクローディアと同一視することができるかどうかは疑問である。クローディアがケルベロスだとしても、あくまでケルベロスは法の下僕であり、法そのものではないと考えられる。クローディアが登場する前に、「彼女」は「私」にはみえなかったという事実は、「彼女」がクローディアよりも、みえない法に近いものだということを意味している。
一方でこのレシのなかでは、「私」とクローディアが台所で話しているときに、イタリック体で強調された「ある考え」(une pensée)が寝室の扉を開けるという、謎めいたエピソードが語られていた。プレリは、この「考え」が、「ジュディットの残した映像」であると想定している。しかしたとえクローディアにとってはジュディットの存在がはっきりしたものではないとしても、後に「肉体を離れた瞬間ではなくて、生きていた」とされるジュディットが、この場では「ある考え」に還元されていると考えることに妥当性があるのかどうかもまた疑問である。そもそも「考え」は他のだれかの考えであるはずであり、ジュディットには自らのことを「考え」と化すことはできない。
それでは、寝室にいる「ある考え」こそが、まがりなりにも語り手によって認識された、この空間を支配する法であり、それが無名の「彼女」として現れていたと考えることはできないだろうか。そしてこの法が、下僕であるクローディアに生命を与えることを、そして帰ってくることを要求したとは考えられないだろうか。『死の宣告』にもまた、ふたりの女性JとNが登場するが、そのふたりのどちらでもない、やはりイタリック体で強調された「ある考え」を、まるでひとりの女性であるかのように、語り手「私」は愛していた。『本日の与太話』では、まるでひとりの女性であるかのように、法が人格化して現れるという奇妙な事態が現れている。『望ましいときに』においては、「ある考え」が扉を開けるという瞬間以外は、この奇妙な観念の女性化という現象は現れていないように思われるが、この無名の「彼女」を「ある考え」と同一視することは、ブランショの小説作品において、可能な仮説であると思われる。« En l'absence de l'amie qui vivait avec elle, la porte fut ouverte par Judith. » という冒頭の文に現れていた « elle » が、既にこの無名の「彼女」を指し示していた、と考えることはできないだろうか。いずれにせよ、『死の宣告』における「ある考え」と同じく、ブランショはこの「彼女」や「ある考え」が何ものであるのか、はっきりと断定できるような書き方をしていない。このような不確定性を、このレシの特徴として考えなければならないだろう。「彼女」が物語のなかでどのように位置づけられるかという問いを筆者はたてたが、このレシのなかでクローディアが云う「ここではだれもひとつの物語に結びつきたいと思っていません」(« Personne ici ne désire se lier à une histoire. ») (p.108) という印象深いことばは、そのような問いすら無効にするものなのかもしれない。
ところで、『望ましいときに』の後に発表されたレシ、『私とともにいなかったひと』や『期待忘却』においては、執拗に反復される文が印象的である。文の反復というブランショのレシの特徴は、『望ましいときに』に最初に現れるものであり、『死の宣告』にこの特徴は存在しない。『望ましいときに』では、ジュディットが崩れ落ちる場面ばかりでなく、最初に「私」が寝室に入り込む場面、「ある考え」が扉を開ける場面、ジュディットがクローディアから飛び跳ねて離れる場面など、多くの場面が反復して記述される。しかしこれらの反復する記述は、ひとつの事実を確実なものとして反復するのではなく、ジュディットが崩れ落ちる場面のように、反復そのものによって不確かさを増幅するのである。このレシの最後で開かれる円環も、ニーチェ的な永劫回帰を目指すものではなく、ますます過去を断片でしかないものにしてしまうような永遠の反復を、不可避的に目指してしまうものであるように思われる。しかしレシの末尾でレシの反復が暗示されるという事実だけでは、それがブランショのレシに特徴的なものであると云うことはできない。このレシ自体が既に書き直しの痕跡をとどめている、ということが注意を引く事実である。ジュディットがクローディアから飛び跳ねて離れた場面の直後に、このような一文が見られる。「まるで彼女たちふたりの間のこの裂け目が、この残酷な懸隔が… ― しかしこの文の最後まで行くことは、私にはできなかった」(mais aller au bout de cette phrase, je ne pus le faire) (p.86)。この文は単純過去を用いて書かれていて、過去の記述のなかに書く行為の時間が既に混入していることを知らせている。このようにレシの記述は、確実な過去を定着できない書く行為の絶え間ない反復になっているのである。冒頭で「私」はふたたびジュディットと出会って、そのたびに驚く。ここにはレシの空間に閉じ込められた「私」が絶えず反復することによってレシを変質させつつあるかのようなまがまがしさがある。『期待忘却』は、反復と作品内部のことばの照応関係によって、文学のことばが発生する地点の不可能性を問う作品となっているが、『望ましいときに』は、ブランショの主張する文学作品の「存在にかかわる孤独」を円環構造によって巧みに表したものと云えるだろう。
レシの冒頭で語り手がジュディットをすぐに連れ戻さずに、あえて法の顕現を求めて寝室に入り、クローディアの側で比較的に安定した時間を過ごした後で、時期を逸したことをジュディットによって宣告される、この『望ましいときに』というレシは、レシを語ろうとする語り手の態度を疑問に付すものであると云える。ジュディットは、自覚的には語り手もレシの法も知らず、語られることなど欲していなかったのだろう。最初に寝室に入り込んだとき、次のように云う語り手は決してそのことを知らなかったわけではない。「私のために扉を開けてくれたこの女性について、[…]私は永遠に何もことばをもらしたくないのかもしれない。彼女のことを引き合いに出し、白日の下にさらす必要性のなかには、[…]私を震えあがらせるような暴力がある。ここに私の短縮したいという欲望がある。少なくともその高貴な部分において」(pp.16-17)。つまり語ることに暴力がひそむともとらえる語り手が、何らかの誘引力によって、レシを語っているのである。物語を語るのには遅れて来て、語るのをやめるのには早く来すぎた語り手という語り手の条件は、その誘引力のひとつの結果であると考えられる。さらに、この「暴力」ということばに着目すると、もうひとつの神話系列を援用して、このレシを解釈することができるだろう。ジュディットという名前は、旧約聖書外典のヒロイン、解放の象徴ユディトを思わせる。もしジュディットがユディトだとすれば、暴力をもって侵入したのは語り手であり、クローディアはジュディットによって、語り手にはもはや語りえぬものとして解放されたのだと考えることもできるだろう。いずれにせよ、このレシの語り手は登場人物によって完全に拒絶され、忘れ去られて終わるのである。
このレシは、タイトル自体が既に、語り手が語る権利を剝奪される瞬間を問題にしている。「今、終わり」と云って口をつぐむことが、このレシに最初から要求されていたことである。ある想像上の過去にとらわれた語り手が、その瞬間を定着しようとしてレシを書いているのだが、時期を逸しつづける不確かな語り手は、過去を定着する有効な手段をもたない。「望ましいときに死ね」というニーチェのことばを思わせる題名をもち、円環構造によって過去を意志的なものにしようとしながらも、提出されたレシそのものは、ジュディットがどこに倒れたのかも定かではない、断片と化した過去を投げ出している。このレシは、「私」による語りを疑問に付す形で書かれたものだと考えられるが、時期を逸するということが、逆に後になってレシを幾度も再開させる原因になっているという、語り手の体験を語るレシのもつ複雑な時間関係を明かすものであると云える。
このレシの後でブランショが発表したレシは、いずれも登場人物が固有名をもたない、高度に抽象的なレシであり、『望ましいときに』のなかにときどき顔を出していた、「書く」という行為の時間に寄り添った記述を中心とするレシである。これらの後期のレシのなかには、もはや「罪深きオルフェウス」としての語り手は存在しないと考えることができる。小説を中心に発表した時期の終わりを告げる『望ましいときに』は、古典的な小説の味わいを残した最後の作品であり、後にはついにフィクションの語りをやめてしまうブランショの文筆活動の重要な転機をなす作品であると云えるだろう。
(1997年発表)